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土佐女子高「あこがれ」

 投稿者:モリ(城北高生徒)  投稿日:2012年 1月13日(金)01時57分37秒
    修学旅行の夜といえば、消灯時間なんて関係なく夜通しで友達とおしゃべりをしたり、わいわいと騒がしいイメージがある。
  しかしこの芝居は、いわゆる「クラスの中では目立たない」人たちの修学旅行中の夜の話で、はじめは「寝る」「寝ない」の応酬が続いていた。
  私は、目立たない人たちにスポットを当てているのが新鮮に感じた。

  セリフは聞き取れないところがあったが、寝ている人の耳に水をかけてみたり、七不思議とは言えないような七不思議を調べてきて一つずつ確認してみるなど、しょうもないことだけど、それがおもしろいし、青春の一ページのように見えた。
  私が印象的に思ったのは、取っ組み合いの場面。
  馬鹿にされてつかみかかり、長い間取っ組み合いが続いて、迫力があるなと思った。また、今までほとんどしゃべらなかった子が歌をうたい出すところも印象敵だった。単純に上手いと思ったし、しゃべるのが苦手な子の精一杯の表現に目を奪われた。
  イケてるっぽいこにつかみかかった子や歌い出した子を見て、このままずっと言われるまま、言わせておくままなのはおかしい。自分にだって意思がある。この状況を打開しよう。という気持ちが伝わってきました。
  ラストのみんなで枕投げをする場面。
  私には降ってきた真っ白な羽が、素直でまっすぐな少女たちと重なって見えて、とてもきれいだと思いました。
 
 

四国大会感想・松山北高「23日は」

 投稿者:モリ(城北高生徒)  投稿日:2011年12月30日(金)16時55分4秒
   実際に兄がいる私は自分のことと照らし合わせながら観ていました。

  私は「兄妹で遊べるのは子供の間だけ」という姉のセリフがすごく心に残っています。きっと兄ちゃんはこれを聞いて少し寂しくなったと思います。多分私の心に残った理由も同じです。兄ちゃんが妹を大切に思っているのがすごく伝わってきました。

 久しぶりに会った妹。変わらず自分を慕ってくれているけれど、自分の知らない間に成長していて、でも自分は全然成長できていなくて。そういうのが切ないなと思いました。

  観ていてよくわからなかったところは、兄ちゃんの夢(?)のシーンです。きっと兄ちゃんの子供の頃の体験なんだろうなとは思ったのですが、クチパクと音が若干ずれてるような気がしたし、私の座っていた位置からだと、子供と証明の当たっている位置がずれていうように見えました。 また、なんで子供がみんなパジャマなのかも不思議でした。

 部屋を斜めから見せるっていうのも私は見たことなかったのでおもしろいなと思ったのですが、机の周りに座って話をしているときは奥に座っている人が全く見えませんでした。

  おもしろいセリフがいっぱいあったし(特にバッタを探すところとか)、母も姉も妹も兄ちゃんも、口には出さないけれど思い合ってて、結局最後まで兄ちゃんは大学を辞めたことを言えなかったけど、母にはわかってるのがやっぱり家族なんだなと思いました。観てて切なくなったりもしたけど、最後は心が温かくなる話だなと思いました。
 

びっくり

 投稿者:青空侍  投稿日:2011年11月14日(月)17時10分56秒
  ブログ、再開していたのですね。

びっくり。

facebookに顔までさらして(当然ですが)

びっくり、びっくり。

どうした心境の変化でしょうか?

リンクしてくれている「シネマッド・ファミリー」も頑張らねば・・・。

http://www.geocities.jp/kiosk770/index.html

 

ブログ再開しています。

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 9月24日(土)11時09分26秒
    古田のブログ「フルタルフ文化堂」を再開しています。
 もしよかったら、読んでやってください。
 http://d.hatena.ne.jp/furuta01/
 

呆然とする

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 3月13日(日)10時00分50秒
   松田正隆の戯曲に「蝶のやうな私の郷愁」という作品がある。こんな話だ。

 台風が近づいている。最初は夫婦の日常のちょっとした「ずれ」。亀裂は徐々に大きくなり、台風は近づき、雨もりははげしくなり、ついには「水」が日常に浸食してくる。ラストにはアパートの一室に「洪水」がやってきて、ふたりの日常を押し流していく…。

 僕が顧問をしている城北高演劇部で、昨年11月に上演した作品。だから、東北地方太平洋沖地震の報道を見て、すぐにこの作品を連想した。劇作家の松田正隆が妄想した非日常が、今まさに現実のものとして現出している。優れた劇作家のイメージに、現実が追いつき、重なった瞬間が、今回の地震なのだと了解した。

 松田正隆の作品には、よく破壊的なイメージとしての「水」が描かれる。そのイメージの背景にあるのは、1982年の長崎大水害だ。長崎市内だけで299名の死者・行方不明者を出した。松田正隆は長崎出身である。第一回OMS戯曲賞を受賞した「坂の上の家」にも、長崎大水害で両親を失った兄弟が出てくる。

 「蝶のやうな私の郷愁」の洪水のイメージも、長崎大水害のイメージと重なる。ふだんは静かだが、猛々しくなると、一瞬で多くの人の命を奪う。まるで、長崎に落ちた原爆と同じように。

 考えてみると、日本では、地震や水害でなすすべもなくたくさんの人の命が失われた歴史がある。現代、ダムや防波堤などの防災施設ができると、洪水や津波に対する意識が薄れてきた。忘れかけたときに、自然が牙をむく。「水は恐ろしい」ということを、否応なく思い出さされる。「水」のイメージは、日本人が根源的に共通に持つ畏怖のイメージである。

 福島第一原子力発電所の事故のことが報道されている。事故は、否応なく原爆を想起させる。「水」といい「放射能」といい、我々の無意識をわしづかみにして暴力的にかき乱す。何と忌まわしい。

 我々は、そういう国に生きている。しかし、私たちは、そこから立ち直ってきた。何度も何度も。今回もきっと立ち直ることができる。そう信じている。
 

ウォール・ストリート

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 2月13日(日)15時34分43秒
  ネタバレです。


傑作「ウォール街」が公開されたのは1987年。
それから20年以上。金融業界は複雑になった。
デリバティブ、サブプライム、CDO、LBO…。
金融業界の人でもなかなか説明できない専門用語が飛びかうこの映画は、
少々マニアックで「わかりにくい」。業界人以外には、敷居が高いのではないか。

ドラマの芯にあるのは、ユダヤ人金融の、父親もしくは父的権威を持つ強者との対立と葛藤。
ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)、娘のウィニー(キャリー・マリガン)、
若きジェイコブ(シャイア・ラブーフ)、ブレトン・ジェームズ(ジョシュ・ブローリン)、
四者の関係それぞれに、エディプス・コンプレックスゆえの煩悶の刻印が押されている。
マッチョ的なものへの憧れと反感は、
「ウォール街」にしろ「アレキサンダー」にしろ「プラトーン」にしろ、
オリバー・ストーン作品に通底するもので、彼の反体制なスタンスの原動力。
ジェンダーフリーの昨今、前時代的で少々うざったいが、
これこそオリバー・ストーンと言えないことはない。

しかし、ラスト5分はコケた。なんじゃこれは。

ゴードン・ゲッコーは身内も裏切る男。血も涙もない「悪の権化」。憎たらしい。
言わば金融業界のダーズ・ベイダー。だからこそ「魅力的」なのだと思う。

僕はてっきり、悪が栄える「ピカレスク・ロマン」として完結するのだと思っていた。
ラスト近く、自分の孫(胎児)の映像を見ながら、ゲッコーが複雑な表情を浮かべている。
人間の二面性を感じさせる印象的な場面。
映画はここで終わるべきだったのだ。

映画のラスト5分はこうだ。
夜、路上、ヒロインが歩いていると、若き主人公がやってきて、
そこへ「偶然」(まちぶせた?)登場したゴードン・ゲッコー、
「1億ドルを返し新エネルギーに投資する代わりに、父親として認めてくれ」
娘、それを受け入れ、ハッピーエンド。

おいおい、「金返す。投資する」と言われたからといって、和解していいのかキャリー・マリガン!
目の前にいるのは、人を平気で裏切り、札束で人の頬を叩くような男だぞ!
それとも、キャリー・マリガンは金によって変節したのか? ダーク・サイドに堕ちたのか?

試写の反応がよくなかったため、急遽ラストを差し替えた感満点の
ご都合主義的安直な展開に萎える。

1987年「ウォール街」では、ブルーカラーの労働者であるマーティン・シーンが、
プロテスタンティズムに通じる価値観の持ち主として、ゲッコーの価値観と対立していた。
強欲資本主義のありように、はっきりと「NO」をつきつけた。
そうした対立と葛藤が、ドラマとして見ごたえのあるものに押しあげたと思う。
今回、本来なら対峙すべきキャリー・マリガンは、父に反抗して強ばってみせる前半とは一転、
変節する後半は、あまりにナイーブだ。

ラストの孫の誕生日に鼻の下を伸ばすゴードン・ゲッコーも、
招待された投資銀行のエリートも、去勢された「いい人」だ。
そこに至る変化が唐突で、説得力がない。つまらない。


 

天装戦隊ゴセイジャーVSシンケンジャー エピックON銀幕

 投稿者:よしのりえ  投稿日:2011年 2月 5日(土)23時08分18秒
  お久しぶりです。フルタ先生。
さすが、たくさんの映画を見てらっしゃるんですね!!

私は、キングコング以来の映画館です。
しかも、この映画です。

戦隊シリーズは、今年の海賊戦隊ゴーカイジャーで、35作目となります。
私たちの世代より少し前から以降は、この戦隊モノとともに、育ってきたようなものです。
中高の時代、学生、青年の時代には、ないものとされていたはずなのに、子どもができるととたんに、自分も子どもに返ったようになりました。

上の子が侍戦隊シンケンジャーから見始めたのですが、そのシンケンジャーと今放映中のゴセイジャーが映画になるというので、見に行きました。

史上初?! 天使と侍がいがみ合い、手を取り合うというストーリー。
むちゃくちゃといえば、むちゃくちゃなのですが、”地球を守る”というその一点がぶれないために、まるで、普通のように命がけで戦うことが”リアル”に描かれています。
子ども向けなので、痛快な映画です。

ただ、この戦隊シリーズ特有のポージングは、日本古来の演芸を受け継いでいるようにも思います。
ここぞというところで、登場し、ポーズをとる。
そのポーズに、感動する。
キタカーッ!!と、爽快になる!
シンケンジャーも場合は、「シンケン○○ ○○○○(氏名)」というように、自分自身がしっかりとヒーローになっていることを宣言しているので、日本人が持つ日本人特有のぞわぞわ感(合戦のときのようで・・・)を感じられる。
今までにないタイプ。
歌舞伎のミエのような、それは素敵なものです。
”生きている芸能”なのでしょうか。
私は、最後の戦いの前の、ミエに泣いてしまいました。

おもちゃ会社と放送局と制作会社がしっかり腕を組んでいますので、商業的でしかないのですが、よくよく見てみると、演出の凝りも見られ楽しいです。
役者も、決してすごいというわけではないのですが、やはり、ヒーローです。

子どものものでしょうが、ぜひ、一度見てください。
おもしろいですよ!!

(さあ、子どもも寝たし、ヨーロッパ企画のDVDを見よう。)
 

アンストッパブル

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 1月29日(土)11時54分59秒
  人為的ミスで暴走を始めた列車をなんとかして停止させようという実話に基づいた映画
トニー・スコット監督

列車の暴走は初歩的な人的ミスでひきおこされる。
安全管理はどうなっているのかと、
最初は半ばあきれながら見た。
日本ではありえないズサンさだ。

登場人物は、結構ダメダメで、レベルの低い口論など普通にしているし。

しかし、ドラマの進行とともに、そうした設定が生きてくる。
決してレベルの高くない人々が、危機にあたって勇気をふりしぼって英雄的行為を見せる、
それがこの映画のキモだ。
スーパーヒーローが跋扈する荒唐無稽な映画じゃない。
人間が等身大に、リアルに描かれているから、
たちはだかる問題の困難さも、登場人物の眼を通して、リアルに観客に伝わる。
たかだか時速100キロ強の暴走だけれども、十分にハラハラドキドキできるのだ。

そして、誰が悪いのかをあらさがしするのではなく、
英雄的行為を素直にたたえる楽天的なアメリカ的おおらかさこそが、
この映画の最大の魅力である。
 

ソーシャル・ネットワーク

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 1月17日(月)07時22分52秒
   若くして富を築いたマーク・ザッカーバーグ。振られた恋人を見返し取り戻すために、なんと巨万を生み出すFacebookという仕組みを作ってしまった不器用な天才オタクの物語。

 この世の中は「仕組みを作ったものが勝ち」と言われている。世界を動かす仕組みを作り上げたザッカーバーグの物語を、単純なサクセス・ストーリーとして描くこともできるだろう。しかし、この映画、とてもシニカルだ。人とつながるための仕組みを作った功労者が、それに固執するためにいっそう孤独になるという変化球のアングル。何という「皮肉」だろう。

 各エピソードは、淡々と描かれる。だが単純ではない。とくに、シーンのつながりには、観客は何度も混乱させられる。過去のエピソードが現代の尋問シーンと唐突につながったり、新しい登場人物が急に出てきたり。それは作り手の意図的な仕掛けなのだろう。混乱させられるたびに、観客は「何がおこっているの?」と思う。アタマを使って主体的に映画を見ようとする姿勢を観客に求める。過去のフィンチャー作品と比べると、表面的で先鋭的なヴィジュアル表現こそ影を潜めたが、印象的な音響の使用なども含めて、潜在意識にガツンとくるシャープな演出は健在だ。

 ただ、勧善懲悪ではないし、必要以上にドラマティックでもない。おまけに、伝記映画で描くには、ザッカーバーグは人間的に矮小だ(もちろんそうした矮小な人間が、巨万の富を一代で築いてしまうことが現代的とも言えるのだが)。ザッカーバーグの葛藤は、好きだったかつての恋人を見返し振り返らせることができるかどうかという、まるで学園ドラマのようなスケールだ。だから、この映画、「市民ケーン」などと比べると、いかにも小粒に見える。

 実話という縛りがあるせいか、主人公をどんな人間だと思うかは、観客にゆだねられている。主人公の中に、嫉妬や不器用さや不誠実さをオイラは見た。人間は誰も完璧ではない。ザッカーバーグは私たち一人ひとりである。
 ただ、そうした人間のダメさをスクリーンで見たいかと言われれば「ウーン」と思う。映画らしい映画、映画だけで完結する「物語」を求める者には、この映画、物足りないと思うかも知れない(正直オイラもそうだ)。多面的な人物造形、独創的な演出表現を追求しようとする姿勢に敬意を評して4つ星としたが、アカデミー賞の最有力候補とまで言われると、過大評価のような気がする。「ゴッドファーザー」「ディア・ハンター」などの過去の骨太で意欲的な作品と比べると、描いている世界の小ささが、どうしても気になってしまうのだ。

 

相棒-劇場版2-警視庁占拠!特命係の一番長い夜

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 1月 1日(土)19時17分1秒
   僕は相変わらずテレビをほとんど観ない。映画の一作目もパス。しかし、今回、OBのカワハラ君が、面白いと言ってたので観た。

 序盤、占拠事件のシークエンスはよかった。とくに、するするっと窓から降りて写真を取る場面が映画的。水谷豊の軽い身のこなしが、ジャッキー・チェン的かつ、警視庁内部で責任のない立場におかれているサマをよく表していて秀逸だと思う。

 しかし、事件が一区切りつき、真実や対立関係がセリフで説明されはじめると、映画的躍動感が失速する。説明なら小説にすれば十分じゃないかと思う(聞けばテレビもこんな調子だそうだが)。

 こうした骨太の作品がテレビ・シリーズの延長線上に作られる意義は理解できる。確かに題材は刺激的だ。しかし、映画館で観る以上、映画は映画でなければならぬ、僕はは教条的に考える方なので、セリフ過多な表現はいかがなものかと思う。

 テレビ的なアップの長回しは、作り手の確信犯だとは思うが、小西真奈美はともかく水谷豊まで涙ぐむのは、反則。ある意味これも説明だろう。

 また、(ネタバレなしなので詳しくは言えないが)「そこで終わるか」というこの映画の終わり方は、テレビを知らない僕にも、とても印象的であった。成功していると思う。
 

実写版「ヤマト」

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2011年 1月 1日(土)19時12分7秒
   久々の書き込みは「宇宙戦艦ヤマト」実写版に対するものです。

 登場人物が各々「死んでいく場面=見せ場」はあるのだが、各々のドラマがない。古代進以外の登場人物が軽く扱われ過ぎ。デスラーも徳川彦左衛門も島も、これといった場面もなく終わってしまった。ああ、もったいない。

 反面、古代進に対しては、ヒーロー的扱いが過ぎる。コスモタイガー隊には、都合よく信奉者がいるし、艦長はひきたててくれるし、イスカンダルでは弾が当たらないし、美人の恋人もできるし。ライバルの島は、嫉妬もせずに「いいやつ」だ。

 もともとアニメの段階から、古代進にはヒーロー的役割が担わされていたとはいえ、キムタクをキャスティングした時点で、その傾向はいっそう強固になった。

 「ヤマト」は人類を救う目的遂行のための「組織」なのだから、「集団劇として作られるべきだった」そう考えるオイラには、実写版の過剰で安直なヒロイズムがうっとうしい。また、古代と森雪が恋愛関係になるのも、テレビ的表現になじんだB層ターゲット向けのお約束であったとしても、「この非常時に何をしておるか」と思えてしまう。ま、これは、キムタクに対するオイラの嫉妬でゲスね。
 

映画「扉をたたく人」

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月17日(水)20時40分33秒
   昨年公開されたアメリカ映画。妻をなくし人生に疲れた老教授(リチャード・ジェンキンス)が、ニューヨークで、ジャンベと呼ばれる太鼓を叩くシリア人青年に出会い、音楽のすばらしさに傾倒していく。しかし、青年はアメリカへの不法滞在が発覚し、パレスチナへ強制送還されてしまう……。

 ちょっとこれは感動した。省略のモンタージュと押さえた演出。テーマと関係のある必要なカットやセリフだけをギリギリ残した脚本や監督のセンスには驚かされた。トム・マッカーシー(監督であり脚本)の名前、これでしっかり覚えたゾ。

 印象的なシーンには事欠かないが、たとえば、犬を抱えた同じアパートメントのゲイの住人と老教授が会話をする場面がある。何げない描写のように見えるが、このシーン、教授に同性愛的嗜好がないことを観客に示す重要な場面として機能している。こういうサラリとした描き方がうまい。このシーンがあるから、シリアの青年と教授の関係を、観客は単なる「友情」として、安心して(?)見ることができるのだ。

 また、シリア人青年の母と恋人と一緒に、教授がボートに乗って自由の女神を見に行く場面がある。かつてニューヨークに船でやってきた移民たちは、最初に自由の女神を見ることで、ああ「自由の国」にやってきたんだと実感したそうだ。ここでは、現代の移民たちに、かつての移民が通ったルートを逆にたどらせることで、アメリカ人に刻みこまれた記憶を呼び起こさせる。アメリカは自由の国だったんだ、多くの人々を受け入れてきた寛大な国だったんだということを、声高に語らなくても思い出すことのできる、ニクイ場面である。こういう場面をさらりと挿入できるセンスに舌を巻く。

 教授がジャンベに興じ、リラックスしていく場面も、もう少し見たいなというところまででとどめる節度ある演出。そして感情を発露を押さえた演技・演出は、ここぞというときの教授の感情の発露や切ないラブシーンを、印象的な彫りの深いものにしている。

 見ながら僕は小津安二郎を連想した。非アメリカ映画的な匂いが、インターナショナルな映画のテーマとうまく調和しているのが好ましい。映画館で見えてよかった。
 

金融の世界を描いた二本の映画その2「キャピタリズム」

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月17日(水)20時23分8秒
   アメリカの悪の総本山へ直接エイヤっと切り込んだ野心作だが、経済システムそのものを俎上に乗せ、2時間の映画に収めるのは、さすがに題材が大きすぎて、消化しきれていないという印象。現代アメリカの経済システムの問題点をすべて把握して、万人が納得するよう主張を述べよ、などというつもりは毛頭ないが、観客に「そりゃないよ」と簡単にツッコミを入れられるような描写はマズイと思う。

 たとえば、銀行救済に米政府が7000億ドルをつぎ込んだのも、あの段階で十分な支援を行わなければ、銀行倒産から始まって、世界恐慌クラスの経済収縮、それにともなう大混乱(企業倒産/失業者増など)を引き起こすおそれがあったから。目先の危機を考慮して、少なからぬ議員が2回目の投票では7000億ドル投入賛成に回ったわけで、そうした「賛成」派議員の声に耳を傾けないのは、一方的にすぎると思うし、フェアじゃない、なんてことは、少し知識がある者なら、誰でも思うこと。

 また、家を失う人たちにしても、家を抵当にローンを組んだ時点で、返済義務が生じるわけで、言わば自己責任。金融危機前のアメリカの不動産ブームは、多くの人たちが、家を転売して儲けようと投機に踊って生じたもの。家を失った「切実な」事情をもう少し描かないと、家を失う人たちに感情移入をすることは難しい。

 今回、政界財界の大物には、突撃インタビューもないし、マイケル・ムーアのパフォーマンスも、イマイチ不発気味。「シッコ」のように、情緒に訴えかけられるジャンルの方が、作品としてはまとめやすかったかも知れない。

 しかしながら、こうしたドキュメンタリーを製作し、ヒットさせ、一定数の人々に影響力を与えるマイケル・ムーアは、あなどれない。日本にそんな映画人がいるか? 内容的にはいろいろあるけれど、問題提起の方向性は間違ってないと思う。だから、僕はマイケル・ムーアを支持したいね。
 

金融の世界を描いた二本の映画その1「ウォール街」

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月17日(水)20時19分25秒
   続編ができると聞いて見直した。古びてなくて驚いた。
 証券取引所の立ち会いの様子などは変わったが、
 マネーゲームの本質は、本当に何ら変わってない。

 インサイダーやM&A、時には法や倫理に反してまでも、
 金儲けを追求する登場人物たちは、
 村上世彰(村上ファンド)やホリエモン、
 そしてアメリカ政府救済資金をもらいながら、
 高額報酬を大盤振舞いしたアメリカ巨大銀行の経営陣を彷彿とさせる。

 「Greed is good」強欲は善である、と映画の中で
 マイケル・ダグラス扮するゴードン・ゲッコーは言う。
 神をも恐れぬ言葉。しかし、アメリカのエリートたちの間では、
 当たり前の言葉でしかない。

 彼らの行き着いた先が、2008年の世界金融危機だった。
 この映画が公開された1987年はブラック・マンデー。歴史は繰り返す。
 だからこそ今「ウォール街」の続編なのだとオイラは思う。

 メリハリの効いたオリバー・ストーンの演出は、役者の好演を引き出し、
 ベストの出来。リアルなセリフのひとつひとつが、
 登場人物に命を与えている。

 「ハゲタカ」なんて映画があったが、
 「ウォール街」と比べれば、縮小再生産にすぎない。
 書き割りのような人間描写にはウンザリだ。
 作り手は、マーティン・シーンとチャーリー・シーン父子の喧嘩の場面に学ぶべきだ。
 

大谷高「村田さんと東尾さん(改)」/感想その4

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月16日(火)09時58分50秒
編集済
   たったふたりの演劇部の、シュールな日常生活のスケッチと思いきや、ラストで明かされるドンデン返しの鮮やかさは、演劇ならではの見事さだった。演劇としての表現の特性をうまく生かそうという作者の企てが、うまく成功している作品だと思う。
 「演劇」は、舞台上で起こっていることは「嘘」である、という、作り手と観客の了解から常に始まる、と僕は思っている。嘘をリアルに見せるためには、観客側の助けが必要である。想像力を喚起するしかけをうまく作り、その力を借りて、舞台にリアルを現出させるのである。たとえば、登場人物が演劇部の部室にいるようにふるまえば、何もない空間が、観客には、演劇部の部室に見えてくる、というように。
 観客と作り手が共犯関係になったときに、演劇はその場所に立ちあがる。だからこそ「隠す」「見せない」「語らない」「意味のない」といった、観客の想像力を喚起する装置が、舞台ではことに重要なのである。
 この芝居は巧妙だ。最小限のストーリーとシュールな「意味のない」展開、無表情・無感情を装うセリフ、いい意味で「人形」として機能している役者……。説明過多にせず、観客が想像し解釈する余地を残すことが、作品が演劇として立ちあがる必要条件であることを、作り手は熟知したうえで作られている。
 役者が何度も繰返す「ウェルカム」「カムヒア」という言葉も、単なる歓迎のコトバではない。アハハハハという笑い声も、単なるリラックスの表現ではない。不気味さや絶望や切なさを内包しているのがミソである。観客の多様な解釈を許容し、単純なコトバで代替することのできない重層的な表現こそが、まさに「演劇的」想像力を生み出し、リアリティを感じさせるのだと思う。
 ラスト、村田さんだと思っていた片方の登場人物が、田中さんとだったと明かされる。こうしたアクロバティックな展開こそが、演劇の醍醐味だ。そうした構造を支える二人の演技者の表現力の豊かさにも目をみはらされた。とても面白かった。(2010年3月15日/倉敷芸文館)
 

青森南高「もみじ」/春季大会感想その3

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月15日(月)22時26分59秒
編集済
   性同一性障害という、ある意味ショッキングなテーマを扱った作品。真面目な作りには好感がもてるが、表現が類型的な方向に向かっているのが気になった。たとえば最初の場面。主人公の心情が主独白という形で吐露されるが、主人公固有の心情の「ほとばしり」というよりは、ありきたりの台詞が羅列されているように感じられたからだ。
 性同一性障害だからといって、考えることが皆同じであるわけがない。もみじの葉が一枚一枚違うように、人は一人ひとり違う。このドラマを「性同一性障害」を扱ったドラマとして描くのではなく、主人公の彼(彼女?)固有のドラマとして描くべきだったのでははないか。
 類型的になりがちなのは演技面でもそうだ。ことさらに深刻で、力んだ硬い身体は、表現の幅を狭める。むしろ深刻ぶらない。まとめない。そして無意識から噴出する訳の分からない情動をすくい取る。リラックスして感じる。そうした姿勢が多様性と固有性を保障する。(2010年3月15日/倉敷芸文館)
 

高松工芸高「あした色の空へ」/春季大会感想その2

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月15日(月)13時06分58秒
編集済
   日航123便。1985年8月12日、御巣鷹山墜落事故の後日談。当の飛行機を整備し自殺した父をもつ女子高校生、隠していた過去が明らかになり、心情を吐露し放課後の教室でたたずむ風景を描く。
 葛藤に至る状況の作られ方が、かなり強引に見え、偶然が重なるドラマ展開が気になる。また、事件のあらましを観客に知らせるため、説明的な科白がかなり多いが、それらの台詞を、ドラマの展開上の都合で登場人物に語らせているように見え、説明的な感じが拭えない。演技の工夫や演出の工夫で修正するには、無理が多いように感じた。
 主人公の翔子のおかれた心理的状況は絶望的なまでに追い詰められている。友人のなぎさに「(あなたは)気持ちがわかる、ただひとりの友達だよね」と言ったり、整備士になりたい軽薄な男子に、父の形見のリベットを渡したり。翔子は自分の思いを友人や男子に託して、ドラマはクライマックスに達するが、翔子の不安や強迫観念は解消されていないから、よく考えると、翔子は、友情の代償として重すぎる十字架を配っているのではなかろうか。その重さに、あの軽薄な男子などは耐えられるだろうかと僕は思う。
 舞台は、高校の教室などではなく、大学の研究室などの、もう少し専門的な人たちが集う場所だった方がしっくりいったのではないか。たとえば航空会社に就職するかどうかという葛藤を中心におけば、男子の整備士になりたいという覚悟にも、リアリティが出てくるのではないかと思うのである。(2010年3月14日/倉敷芸文館)
 

帯広柏葉高「to get her!」(第4回春季芸術高等学校演劇研究大会を見た)

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2010年 3月15日(月)09時28分18秒
   最初は刹那的なドタバタやギャグのように見せて、劇の中盤から徐々に「伝えるとは何か」という、作者の真の意図が見えてくる。この仕掛けが非常に巧妙で感心させられた。テーマや主題に、展開が足をとられることなく、セリフややり取りの、無意味で機械的な応酬のメカニズムが、演劇を立ち上げるためのプロセスとしてよく位置づけられ、機能していると思う。構造が演劇的。作者(顧問?)は、演劇をよく知っている。
 筋書きは単純。学校祭の後夜祭、人のいない倉庫のようなところで、告白をしたい人たちが、どう告白をしようか、悶々とする。伝えられない切なさが錯綜し、伝えられないという「内容」と、伝えないことこそ演劇的な伝える方法なのだという「構造」が、巧みな重層的な構造を形作っている。
 役者はもう少しうまくてもいいし、観客を笑わせることにもう少し節度があってもいいなど、気になった点はいくつかあるが、何よりも「演劇的」であることの純度の高さに舌を巻いた。いや、お世辞でもなんでもなく。(2010年3月14日/倉敷芸文館)
 

2009城北高演劇部夏公演「いるか旅館の夏」口上

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2009年 9月 3日(木)14時02分58秒
   舞台はコワイ

 舞台はあなどれない。そこは、ウソをつこうと思えば思うほど、見透かされてしまう場所である。
 昔のことだが、ご飯を食べる場面で「いただきます」のセリフ一言を、どうしても言えない生徒がいた。僕はその生徒に聞いた。「普段の生活で、いただきますって言ってるか」「言ってません」。
 身体は正直だ。ふだん使っていない言葉は、たとえ「いただきます」の一言ですら、舞台で言えなかったりする。ときにそれが、白日の下にさらされる。つくづく役者は大変だと思う。

 よく、役になりきる、などと言われるが、厳密な意味で「なりきる」ことなどできるのか。不可能だと思う。「なりきる」ということは、自分を消すことである。たとえ憑かれたように演じる役者がいて、我を忘れて演技をしたところで、身体はウソをつけない。役のために扮装しても、たとえ10キロ減量したとしても、身体は役者自身である。自身の身体を別人の身体に変えることは、タヌキやキツネでない限り、不可能だ。
 むしろ、すぐれた役者は、自分の魅力的な部分に役柄をひきつける。魅力的な声を持つ役者は、魅力的な声が際立つように演じるし、表情の魅力的な役者は、その表情が際立つように演じてみせる。また、スターと呼ばれる人たちは、どんな役を演じていても、魅力的な素の自分が見えるように演じる。キムタクは、どんな映画やドラマでもキムタクだ。
 逆に言うと、魅力的な人物でないと、魅力的に演じることはできない。
 表面をどう取り繕うかが問題ではない。役者に求められるのは、深いところから、いかに魅力的な存在になるかということだ。「演じる」ことに必要なのは、成長であり、人間的鍛練なのである。

 しかし、高校生は、まだまだ未完成でつたない。未完成だからこそ、演劇部員は憑かれたように稽古に取り組む。「これでいいや」とはならない。それは、おそらく、舞台が楽しい場所であると同時に、コワイ場所であることを、実感しているからだろう。一筋縄ではいかない。ナメたら手痛いしっぺがえしを食らう。彼らは、すでにそのことを知っているからだろう。

 5月、「楽しい芝居がしたい。笑わせる芝居がしたい」と無邪気に言った。そして選んだのが、この「いるか旅館の夏」。しかし、笑わせる芝居がいかに難しいか。彼らは身を持って実感したと思う。舞台をなめたらアカン。こなすには、もっともっと人間的に成長しないとダメだ、時間は限られているゾ。顧問からは、そんなメッセージを送り続けた4カ月だった。
 「いるか旅館の夏」には、未熟さと、成長の刻印が混在している。そのアンバランスこそが、まさに、彼らの今の姿である。そして、彼らの「いま」が刻みつけられたこの瞬間は、変わっていく過程の連続である。
 近い将来、サナギが蝶に変わるように、彼らは変貌していくのだろう。それが予感されるから、同じ時を歩めない私は、せめて今の彼らの姿を瞳の奥に刻みつけておこうと思う。演劇が風に書かれた文字ならば、それに没頭する部員たちの夏もまた、二度と帰らない、一回性の瞬間である。帰らないがゆえに、その瞬間は、愛しくそして美しい。
 そういうわけで、彼らなりの、ひと夏の落とし前を、ぜひ目撃してほしいと思っている。どうかよろしくお願いします。

 古田 彰信
 

豚インフルエンザと集団ヒステリー

 投稿者:古田 彰信メール  投稿日:2009年 5月18日(月)19時15分26秒
編集済
   なるほど。そうなのか。僕は深くうなずく。下のURLに続くいくつかのエントリーを見て、心を強くする。
 http://www.creative.co.jp/top/main3681.html
今回の騒動で、誰が権力に迎合的か、誰がアホか、
よーくわかった。結局皆、責任回避のことだけ考えて、
「もしものことがあったら」「安全第一」の大合唱。
上から下まで飼い馴らされて、
有事体制、国民統制への一歩であるという
問題意識すらカケラもなく、
「もし患者が本校から出たら」「クラスから出たら」と
保身のことだけ考えてびくびくしている。
まさに地獄への道は善意で敷き詰められている。
 

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