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ティム・バートン監督の新作レビュウ。ネタバレあり。
「感動」とか「笑い」を期待する善良な観客を200%裏切り、不快さを呼び覚まし、見に来たことすら後悔させる悪意の映画。首切り、血が飛び散るシーンをきちんと描いており、おしゃれなデート・ムーヴィー風の衣装はまとっているが、まごうことなき「スプラッター・ムーヴィー」である。終演後、見かけたカップルたちはほぼ無言であった。
ミュージカル仕立てになっており、歌詞で状況説明されるので、序盤は退屈で投げ出してしまいそうになる。が、30分すぎに、ある場面で映画のしかけを理解できて、俄然面白くなる。
その仕掛けとは、T・バートンが「自らの分身として」二人の屈折した性的嗜好を持つ人物を登場させているということだ。それはもちろん主人公トッドとその仇敵の判事。かたや「刃物愛好」、かたや「覗き」。もちろん、これらは屈折した性行為の明確な暗喩。
トッドの殺人は、単なる「復讐」ではない。復讐なら、あんなにたくさん殺すことはないではないか。殺人の場面は、性的不能者であるトッドが、エクスタシーにひたる歓喜の瞬間。そういう意味でなら、トッドは色情狂の判事となんら変わらない。もちろんそれらは、監督であるT・バートンの嗜好の一部でもあるのだ。
この作家の関心は、心の内側にぐいと向かっており、できあがった作品は、負のエネルギーに満ちている。自らの変態的な嗜好の部分を拡大し、徹底して露悪的に見せる。そうした凄みこそ、T・バートンの真骨頂だろう。
ラスト、少年は主人公の喉をかき切って殺す。普通の少年なら震えて隠れているのがオチ。いくら復讐だとは言え、殺人鬼の首を斬る少年など、リアリティの観点から言えば、ありえない。
少年が「殺す」という展開になるのは、作者の行動倫理がそこに反映されているからだろう。要するに、主要な男性の登場人物は、みんなT・バートンの分身なのだ。映画そのものが「T・バートンのアタマの中」で完結しているのが、この作品の特徴である。
それは、ラストに至る展開でも分かる。主人公の復讐が果たされ、主人公が死んでしまった時点で、唐突に物語の幕は降りる。普通なら、ジョアナを好きだった青年の動向や、ジョアナの動向などの伏線は回収される。しかし、これらの伏線は放り出されたまま、唐突に終わる。作り手にとっては、ドラマ的完成度など、実はどうでもいいのだ。暴走した切り裂き魔が、無垢なる者の手で罰せられることこそが、作者にとって、もっとも重要なのだろう。そこには、作家の「自罰」という、内向したベクトルが感じられるだけだ。
我々は鬱々とした暗雲たなびく荒野のようなT・バートンの心象風景を見せられているかのようだ。だからこそ、色調を落とした荒涼感あふれる画面設計が、非常に効果的にも見える。もっとも、そうした内向きの心象風景が万人にとって面白いかと言えば疑問。だが、世間的な情緒や倫理に迎合する表現が幅をきかせている昨今、世間的価値をブチ壊すひとりの天才の狂気の仕事を前に、とまどい途方に暮れるのが、この作品に対する意義ある観方だろうとオイラは思う。
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