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感想じゃないけど・・(ザキのを受けて)

 投稿者:伊丹来未  投稿日:2004年 6月29日(火)14時26分53秒
  島式振動器官の劇評は最新号「劇の宇宙」に掲載があると聞いてます。
九鬼葉子さんという方が書いてらっしゃるようです。
九鬼さんは稽古場から見てたりするらしい?です。
皆様、興味があれば、ぜひどうぞ。。
私も、早く読みたいです☆
 

島式振動器官

 投稿者:ザキ  投稿日:2004年 6月28日(月)23時17分42秒
  時々書き込んでください、という古田先生の言葉を受けて…
遅ればせながら書き込ませていただきます。『島式振動器官』について。
観劇から1ヶ月弱も間を空けてしまっての感想です…
といっても、実はあんまり書くことがないかもーと思ってしまっているのです。
下にあるクミさんの書き込みが、非常に的を得ているというか。
東京公演は京都公演よりも遅かったので、ザキはクミさんのカキコを見てから、観劇したのです。
で、カキコを読んだ時点では、よく分からん感想だわ〜と思っていたのですが。
見てから、納得。クミさん、凄くいい感想書いてる!!
なんだか、そうとしか――この公演そのものが松田氏の実験だったのでは?と思ったとしか言えません。

この作品については、何を語ったらいいのかよく分かりません…。
えーっと…作品の世界観がつかみにくかったです。というか、つかめませんでした;;
何が常識で何が非常識なのかが、よく分かりません。
多分、それは役者の喋り方に、感情がこめられてなかったからなのだと思います。
長ゼリが多くて、その世界について与えられる情報は多いはずなのですが、
今喋った事が、その世界で「嬉しいこと」なのか「悲しいこと」なのか、
「いいこと」か「悪いこと」かの判断がつかなかった気がします。
「悲しい」と言っても、その言葉が本意なのか判断できないというか。
咀嚼できない事がどんどん溜まっていって、不思議な感覚でした。

正直な感想は、そこまでやられると着いていけないかも…です。
私、何を見てるんだろう…と、観劇中から思っていました。
そして……眠かったです…………
松田作品を見に来る人って、それなりに芝居を見る人たちだと思うんですが…
ザキの見に行った回では、居眠り率がかなり高かったです;;

誰かが劇評を書いたら、是非読みたいな、と思う作品でした。
 

嗚呼、憧れのUSJ・・・。

 投稿者:ナッチ  投稿日:2004年 6月25日(金)23時57分11秒
  6月22日。前日に台風6号が徳島に上陸!!台風が残っていれば遠足は中止と聞いていたので朝起きたら思わずTVの前に駆け込みました。お!!どうやら晴れのようですねー!!!待ちに待った遠足がやってきました♪・・・と、言ってもあまり実感がわかず当日になっても着くまでは皆でどこか行く〜。って感じでした。実感し始めるのが遅いのです・・・。
今回メグとクラスも同じなんでほかの友達も入れて4人で遊びました。バスを真っ先に飛び降り、ハシャギまわってました。我先にと走り出す始末・・・。
今回私は実は初めてのUSJでした!!面白いとか説明は聞いてましたが想像以上!!入り口は思った以上目立ってなかった気もしますが・・・。
演劇関連ではないかもしれませんが、今回とても関心を持ったのは着ぐるみをきているキャラクター達です。最初、入ってすぐ「シュレック」に会い写真を撮ってもらったんですがポーズを決めようとした瞬間ピタッ!!と動かなくなり「え??このまま動かないでとるの?!」とビックリし「ハイチーズ」といようとした瞬間ガバーッ!!!っと突然後ろから抱き込まれかなり度肝を抜かれました。喋れない事を上手に利用してマイムで伝えたり、キャラ同士で共有して動いたり、つねにメリハリをつけていたり・・・。どうしたらお客が喜んで、驚いてするかを勘と一瞬の判断で動く。私に足りないものがすべてがそこにあった気がしました。パレードも一人一人が自分の特徴、特技に自信を持っていて生き生きしている様でしかもそれぞれがお互いを信じて力一杯やっているようにに見え見ていて引き込まれていき目が離せませんでした。(その後メグと興奮して最後まで見、時間がヤバイ事に気ずきまたもや駆け帰りました)時間もお金もなかって十分に満足し切ったかといえば欲張れば満足とは言いがたいですがいっぱい乗れたりしたのでそれはそれでよかったです♪何か感想を叫んでいるのかいまいち分からなくなってきましたが、良い思い出になってよかったです☆★
 

タメグチで話せ」

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 6月19日(土)02時25分50秒
   顧問がいうのもなんだが、トミニシ★エンゲキは、礼儀とか挨拶を重んじる方だと思う。
 部員の多くは、顧問である僕に敬語で話すし、
 僕も生徒に対しては、比較的丁寧な喋り方を心がけてきたつもりだ。

 で、その日も、僕のところにきた部長のイッチーは、敬語で僕に喋っていた。
 「はい」「はい」「わかりました」「わかりました」と何度も僕に言う。
 だが、僕にはその口調が少しひっかかる。
 「わかりました」のタイミングが、心なしか少し早いのだ。「はい」「はい」もむやみに多い。

 トミニシ★エンゲキでは、
 「はい」という返事をする習慣は、日常化すらしている。
 僕も、稽古中に「「はい」と返事しろ」と何度も注意してきた。

 だが、僕には、イッチーのそのコトバが、とても不用意なコトバのように感じられた。
 まるで、言葉に対して安穏とできる世界から、無意識に発せられるコトバのように。
 「わかりました」ということで、心にバリアをはりめぐらそうとしているかのように。
 もちろん、イッチーには、悪意はないのだろう。
 だが、演劇を志すものとして、これでいいのだろうか。僕は思った。
 演じるということ、それはすなわち、無意識下の言葉や振る舞い方を意識化し、
 舞台の上に定着させていく行為なのではないのか。

 僕は、イッチーに言った。「タメグチで話せ」と。
 「えっ」と言ったまま、彼女は絶句した。
 次の瞬間、しどろもどろになった。何度も何度も言い直した。
 どうしても「です」「ます」というコトバが口をついて出てしまう。
 なかなかちゃんと喋れない。
 習慣として無意識に刷りこまれた振る舞い方を意図的に変えることは、難しい。
 自分を変えるということは、とても難しい。
 どうやればいいのか、僕には一言でそれを説明することは到底できないが、
 言えることは、たえまない努力を続けていくこと、これがもっとも必要なことだろう。

 TONBOさん、お久しぶりです。
 水産高校のさいとう先生、富岡東高のムラハシ先生、そして小松島高のtonboさんと、
 多くの方が、文化の森フェスに向けて、それぞれの学校のメンバーを
 束ねていこうとされていること、とても頼もしく思います。
 tonboさん、あきらめなければ、続けていれば、きっと明るい明日がやってくるのだと思います。曇りの日がずっと続くわけではないのですから。楽天的であることも、ときには必要なのかもしれません。後輩を信じて、前向きなアドバイスをして、励ましてあげてください。
 
 

お久しぶりでございます。

 投稿者:tonbo  投稿日:2004年 6月13日(日)15時40分59秒
  お久しぶりでございます。
小松島は新入生を迎え、新体制が発足し6月20日の文化の森の公演に向けて動いております。
私は当日四国大会に出場するため、会場に行くことができませんがようやく上演にこぎ着けました。

主要なキャストを全て一年生にし、上級生はスタッフに回るという決定は部長らにとって苦渋極まるものだったと今更ながらに思います。
結局、私たちの学年が舞台に立ったのは秋の舞台のみでした。

この一年を振り返ってみると、試行錯誤の連続でした。
部内の人間関係の調整が上手くいかず、モチベーションが低下し、瓦解を迎えました。
新体制にも、その兆候があるような気がします。
今は私が統制を敷いていますが、それがなくなった後のことがとても心配です。
おそらく、秋までもたないのではないかと、そんな予感すらします。

一つの結晶を創る作業に、共通理解を持つことはかくも難しいのです。
もしも全員が一つの目標を共有でき一個の共同体として連動して動くことができたならばもっと効率的、かつ洗練されたものになるだろうに。

これが、私の一年間の総括です。
解決法は見つからずじまいでした。
なぜなら人は皆違うから。
一個の共同体として、意志を共有できるはずなどないのです。
その葛藤こそを生かすべきなのでしょうけれど。
それをするのには高校生という年齢は若すぎるのでしょう。
しかし、もう少し年を取ればおそらく、葛藤自体が起こらないのだろうな、と思います。
素晴らしい舞台を創る高校は、この矛盾をどう克服したのだろうと考えました。
顧問のパワープレイ、もしくは奇跡的なメンバーが集まる、しか思いつきませんでした。(苦笑)
自分の思考の浅さが残念です。

それでは、また機会がございましたら。
多謝。
 

島式振動器官

 投稿者:伊丹来未  投稿日:2004年 5月14日(金)04時57分15秒
  ヤマト先生からチャット指令が出ていたので、わからないなりにも書いてみます。
ここに書くのは久しぶり★でも明日提出の図面を書いていてこんな時間です(涙)
まず、、これはお芝居自身のことではないのですが、アトリエ劇研さんにイスが導入されました!!
いつもは座布団で、イスを多く使う場合は持参しなければいけなかった劇研さんですが、、今回のお芝居から(?)イスを導入したようです★
長いお芝居でもお尻が痛くならないのでした♪
では島式振動器官。一言で言うと、非常に難解でした。はい。
まず、舞台セットはシンメトリーでコンクリートの素材を表現した、重み、奥行き、静けさなんかが感じられる存在感のあった舞台美術になっていました。
このお芝居がなぜ、難解だと感じたのかの大きな要因は、台詞にあったように思います。
ここからは私の勝手な解釈です。
台詞が口語ではなく文語に近い喋り言葉だっとように思います。
状況は全て文語のような台詞で説明されます。
それが説明的にならないよう、役者は棒読みに近い話し方をします。
自分の台詞のないところではぽっかりとした間(富西流に言うと)をつくり、ストップモーションのような状態にあります。
相手にかかる台詞でも、かけているようでかかっていない。体の状態が相手にかけているようには見えないのです。
役者さんの動きも無意味なものなのだったのかもしれない。
実際、口にする台詞もヘンテコな言葉で、言葉からは想像が難しい、一般常識ではありえない世界が舞台の上では通常のように話されます。(例「どっちかの耳を手紙にしたんだ」)
非常に実験的なお芝居のようにも思います。
役者は非常に声を響かせ発声せます。棒読みで。
なんとも難解で、本当に勝手な解釈になるのですが、人間という楽器の響きを使って、ある物語を聞く人に想像力をかきたてるよう表現するには、いかなる手段がありえるのか、といった実験的演劇のように感じました。
その結果が島式(松田正隆式)振動(表現の手段)器官(場所)なのかな、、と。
読んでいる人に伝わるかな??かなり整理したつもりではあるのだけれど(苦笑)
では今夜はここらへんで。。
私的にはかなり頑張った(笑)
さて、明るくなったのでゴミ出しにいってきマース★徹夜(涙)
 

演劇をすること

 投稿者:めぐ  投稿日:2004年 4月24日(土)12時28分25秒
  ありがとうございます。
別々の個人が、集まって、同じ芝居をつくりあげるということの難しさを、改めて思い知った感じです。

正確な日程は決まっていなかったにしても、私たちが作ろうとしている芝居は、本来なら4・5月にする予定だった、しなければならなかったはずの芝居なのに。
舞台に立って芝居をしているのも、この台本にしようと決めたのも自分たちだったはずなのに。
もう立ち稽古をしなければならないのに、人数が揃わず練習が出来ないということに危機感を持つ事ができない。
しかも、先生に指摘を受けてやっと気づいたなんて・・・・・・。
どうして気づくことが出来なかったんだろう、自分たちの事なのに。自分が情けなくなる。
今思うと、いっぱいいっぱいになっていたきがする。肉体的にも精神的にも。
演技が、感じるということが上手くいかず、変に力が入り余計に出来なくなってしまう。
そんな自分が情けなくて、不甲斐なくて泪が出そうになって必死で我慢する。この我慢もココロの掛け金のせいなんだろうなぁと思う。どうにかして早いところ取り払ってしまいたい。
取り払って、本音でぶつかり合えるような関係になって。

そうして『自分たち自身が客として観たいと感じられる、いい芝居』を造りたいです。
 

こんにちは

 投稿者:UYA  投稿日:2004年 4月23日(金)01時05分48秒
  はじめまして。
徳島高校演劇OBの者です。
ある演劇系のHPのリンクからこのHPに辿り着きました。
書き込みをさせて頂くのは初めてです。

前数件の書き込みを拝見して、
高校演劇をやっていた頃を思い出し、
何とも言えない、本当に切ない気持ちになりました。
私も皆さんと同じような悩みについて、
毎日考えたり、話し合ったりしていました。
そのような当時の葛藤は、10年たった今でも、即座に、鮮明に思い出すことができます。
でも、部活をサボって遊んだ日の事は、たった10年の間に忘れてしまっています。

>訳のわからない感想です。上手くまとめるのはかなり難しいです・・・。

>また自分勝手な暴走ですいません↓…。

>まだ、書き足りないのですがうまくまとまらないのでここで・・・。

御三人が皆、同じような文章で自分の考えを
まとめ、守って、おびえていますよね。
これこそがまさに「こころのカケガネ」なのではないでしょうか。

部活が集団としてまとまるのは大変だと思いますが、
部長さんを中心として頑張って下さい。
自分たち自身が客として観たいと感じられる、いい芝居を創って下さい。

頑張って下さい。
 

こころの『掛け金』

 投稿者:いっち  投稿日:2004年 4月22日(木)21時53分38秒
  「全員が揃わんことについて話してみい」

先生のこの言葉から改めて今の自分について考えてみました。
確かに、ここ最近4人、もしくは3人の日が続いて部活らしいことができなくなっていました。
それに、『芝居を作る』ということもままならなくなっていました。(家の事情もあるとは思うのですが・・・)

話し合いをしていていつも思っていても言えなかった事がありました。それは、誰かが話して、少し間があいてまた話し出す・・・。ある人は当てないと話し出さなくてなに考えているのかがわからない・・・。--------------------『なんで当てな喋れんの?』
私は、最近虚をついて泣きたくなります。話すときにもついつい涙がでてきたり・・・。
言いたいことがあるけど、もしこれをいったときこの、関係がくずれたら・・・、それがまあ先生の言う「心の掛け金」になっていたのかもしれません。今から思えば、人に踏み入られること、踏み込むことを恐れていたのかもしれませんね。普通の生活では、ここまでの信頼関係は必要ないのですから、すぐに「思っていることを言う」なんてことはできません。
1年もの間ずっと一緒にいたから、何でもいえるような関係になっていたと思い込んでいて実際はぬるい関係から進むのが怖かったのだ。
だから、相談や愚痴もなかなかいえなくて自分の中にしまいこんで抱え込んでいたのだ・・・。
皆から見れば、自分は拒絶していたみたいで・・・。「いけるいける」「あたしがやらな」がくち癖のようにでていたし。部長という役職(←のせいではないが)という責任を抱え込んでいたのだ。

この話し合いで私は少しだけ心が軽くなりました。
心の掛け金をはずすことが部活を開くということにつながると思うから少しずつでもはずしていきたいです。まだ、書き足りないのですがうまくまとまらないのでここで・・・。
 

自分を皆に溶くコト

 投稿者:アイコ  投稿日:2004年 4月22日(木)00時09分46秒
  先生に今までの富西演劇部の中で1番欠席人数・日数が多いと言われました。
先輩達が引退してから活動部員数が少なくなったのにも関わらず、確かに最近部員が休みがちな現状であります。それについてどう考えているのか?と再び先生に問いただされました。また、危機感が無さ過ぎるとダメを出されました。確かに公演日も場所も漠然としていて実感というかあせりが感じられませんでした。というよりも、むしろ余裕さえ自分の中では生まれていました。
今までに同じ問題を何度か出されていましたが、その度に全員で頭を抱えていました。私達に変化が見られないからです。
今までに本当に何度も私達2年の中で「頑張って計画的にいこぅ!!」みたいなことが話し合いで結果的に出されていたはずなのにすぐにそれはドコかへ飛んで行ってしまぅのです。何故だろうといつも思うのですが、私も思うだけでそのまま見過ごしてしまいました。先生がいない立ちとかでダラけているのがイイ例です。きっと私の中で(いや皆の中でもカモ)「分からないからいいか…」「皆がこんなだからいいか…」とか投げやりというか甘えが自分の中で勝ってしまっていたのだと思います。それに流される自分もつくづく自分に甘いなぁと思います。
私は話し合いの中で「自分から発言しろ」と言われました。何でだろぅ、その話し合いでは発言しにくかったのが本音です。自分も同じことですが、皆前も同じこと言って結局何も変化してないから(まぁそこで意見を言わない自分もまた甘いんでしょうけど)。今まで見てきたよぅに誰か人任せな所があったりして「どぅせまた変わらんわ」とか思っていました。私はよく人や自分の可能性を否定します。本当に最高まで努力なんぞしたこと無いくせに途中で諦めてしまいます。積極性が欠けてるんでしょうね。「外へ開く」苦手分野です。演劇って何だろぅとか思います。ハッキリ言って信頼関係って何?とも思います。でもそんなん言ってたら公演も成功するはずもなく、仕事なんて任せてられませんね。全く信頼してないわけでは無いのですが、(てかむしろ去年の今頃なんかよりは本当に皆を頼りにしてます)こぅ休みとか連続するとやはりダラけが見えたり、その子の見えていたやる気が薄れていくのを感じてしまったりするのです。(まぁ家の事情は仕方無いです)
この話し合いで今後千夏が言うよぅに1%ずつでも本当に私達が変わっていけたらイイなと思います。そして注意し合える仲を作って先輩達のよぅに部活にメリハリを出せたら成長だと思います。
何だかんだ言ってこの演劇から抜け出さないのは、やっぱり演劇が好きというか永遠の憧れのモノだからだと思います。後悔せんよぅに自分を先輩達のよぅに変えていけたらイイなと思いました。

また自分勝手な暴走ですいません↓…。
 

危機感の問題

 投稿者:なっち  投稿日:2004年 4月20日(火)22時36分33秒
  4/18の話し合いで皆の意識が変わったかはまだ分からないけど、話し合いをして今の私達の年代はいい加減であり、沢山の問題を抱えていると知りました。
その日は、前日に与えられた「演劇について何でもいいから感じたり思ったりした事をまとめる」という宿題の発表のはずでした。でも、先生の提案(?)で急遽話し合いに変わりました。『全く危機感がない』休んでいる人がいても誰一人として焦りが見えない。私達2年生は部員数が5人。今度の芝居は4人の役者で1人の演出。しかも役者は全員出ずっぱり。1人でも休んでしまうと立ちはできません。確かに、言われてから気づいたのはまずいと思いました。でも、よく考えると全員揃っていても先生がいない時の練習は何だかだらだらしていて気持ち的に変に余裕がりました。詳しい公演日が決まってなかったせいか、まだいける。といった雰囲気があったり・・・。
話し合いをしていても、言っている事はバラバラ。会話をしているけど対話になっていない。疑問符で問いかけている子がいるのにその返事を返さずまた別の話題になっている事もしばしば?沈黙が続いて誰も喋らなかったり、名指しであてられないと自分から話し出さない人。先生曰く「心にカケガネがかかている。」らしいです。自分を解放できない、本音で会話できない。これをどうにか乗り越えないといけないと、試練が!!確かに自分の全てをさらけ出すのは怖いし、人に何か言われたり嫌われたりするんぢゃ・・・と思うと躊躇してしまいます。これを、今後どうやって乗り越えればいいか?新たな課題が生まれました。
・・・危機感の話に戻してみて。私は、とにかくこまめに計画的プランをたてる!!だと思います。細かく決めて、休みをとるなら休みをとってしっかり休養期間をとり練習する時は練習!!ここで身体を壊したり、疲れが溜まり精神的にも疲れてきたら今度こそダメになりかねません。メリハリをつけ、皆で作っていく気持ちをもっていきたいです。もちろん、口だけにはならない様に頑張るつもりです。どこまでできるかは、力量と根性にかかってきそうです。しっかりやりたいです。今まで口だけみたいな事もあったからと言って今回も口だけだと思ったらそれで終わりだと主増す。ただ、少しでもやろうと思えば少なくとも口先だけではなくなると思うんで。

演劇部に入って普段あまり気にもとめてなかった事を真剣に考えたりする事が多くなりました。それに、何回辞めたいと思っても結局辞めれずにいたり・・・。いつの間にか生活の一部と溶け込んでいます。インターネットに繋ぐと無意識のうちにここにきていたりとか(笑)毎日1%でも変われたら嬉しいです♪

訳のわからない感想です。上手くまとめるのはかなり難しいです・・・。
 

「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 3月30日(火)11時40分58秒
  「白の揺れる場所」のあと、やっと時間を作って、おくればせながら観た
「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」。

いやはや、ものすごいものを見せられたって感じだ。
鳥の目から見た戦闘シーンのダイナミックさはもちろんのこと、
こうした大きな仕事をまとめあげた手腕や、バイタリティあふれた演出力は、
やはり20年に一度の仕事だろう。
僕は、そうした力業を成立させたことに対して、掛け値なしに尊敬したいな。

たとえば、いくつかのストーリーラインを平行させ、
複数の物語を有機的に組み合わせて、さらに大きな世界を語る手法に対しても、
「スター・ウォーズ・サーガ」などと比べても、圧倒的にうまく作られている。
指輪をめぐる善と悪との葛藤や、友情と勇気を核にした骨太なドラマも見ごたえ十分。
僕は1200円でこれをみたわけだが、ホントにこれを1200円で観ていいのかと思ったくらいだ。
僕にとっては、20年に一本の作品だと思う。

監督のピーター・ジャクソンは、1961年10月生まれ。
最近、オタク的感性を芸術の域まで高めていくといった、この世代の仕事ぶりを
たくさん見ることができるのは、偶然ではないのだろう。もはや彼らは、メインストリームと言える。
40歳過ぎのオタク世代ならわかるだろうが、
1970年代にサブカルチャーの洗礼を受け、SFやファンタジーに耽溺していた者たちには、
発想の根本に「現実にどこか背をむけた部分」がある。実は自分もそうだ。
そうした部分を持つ者は、どこか子どもっぽさを残した、オタク的感性の持ち主として、
従来、揶揄される対象だった。だが、現実に背をむけているからこそ脆弱なのではなく、
背をむけているからこそ、権威的なイデオロギーに
巻き込まれない強さを持つことができるのではないか、僕は漠然とそんなことを思った。
それが、この映画の「指輪を捨てることが、世界に平安をもたらす」という、
極めて現代的なメッセージと、重なる部分だ。

映画中、フロドやサムの活躍を観ながら、
自分のことを照らし合わせながら、実は、この映画を観ていた。
近年とてもシビアになった、トミニシと学校現場。
精神的にも肉体的にも追いつめられる場合が多い。給料もさがった。
まるでここは「戦場」だ、と最近よく実感することも多い。
映画の中で描かれている戦場は、今の自分のおかれている状況でもある。
そんななかで、勇気と信頼を掲げて雄々しく戦い、
自らの使命を果たそうとしている登場人物たちに、僕自身がとても励まされた。
単純でストレートなメッセージだからこそ、僕の心はふるわされた。
敵の軍勢とは、僕にとっては、官僚制であり、
財政の締めつけであり、右傾化しつつある社会状況である。
子どもとの接点を失い、卑俗な目標に汲々とする教師や管理職は、
生きたまま、古代の儀式に、息子とともに自らの身を焼かんとする執政だ。

僕らは、戦いつつ、何かを捨てていかねばならぬ。
僕にとって、指輪とは何だろうか。

 

「ジョゼ」補遺

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 2月23日(月)23時49分44秒
   あ、オババを演じた新屋英子さんには、「ヒミコ伝説」というひとり芝居で、僕が板野高に勤務していた頃に、交渉して学校に来てもらったことがある。重要な役で出てらしたので、何だか嬉しくもあり、懐かしかった。2003年の助演女優賞や。怪演。
 最後に、この映画を観ながら、今度京都で上演する「白の揺れる場所」のことを考えていた。もっとリアルにシビアにしよう。そして、骨のある女子高校生に見てもらえるような芝居にしよう。「ジョゼと虎と魚たち」は、僕にとって、いいお手本でもある。
 

「愛と現実」ジョゼと虎と魚たち

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 2月23日(月)23時38分1秒
   ひさしぶりに早めに学校を退去して、評判の高い「ジョゼと虎と魚たち」を観る。
 舞台は大阪。少々軽メの今時の大学生の男と、足の不自由な、自分のことを「ジョゼ」と呼ぶ娘の恋の物語。妻夫木聡、池脇千鶴主演。犬童一心監督。
 「足が不自由な人の恋愛物語」と聞いて、学校で人権教育係をやってる僕は、あわよくば来年度の人権映画に推薦しよう、学校で上演しよう、なんて考えて映画館に行ったが、自分が甘かった、と思い知らされた。これ、最大公約数の生徒に見せるには、シビアすぎる。教師が学校という枠の中で見せるものではない。これを「人権映画会に」なんて言ったら、ジョゼに鼻で嗤われるにちがいない。
 僕の後ろにまじめそうな女子高生の一団が観ていた。彼女らは、何を感じて帰っただろうか。もちろん、単に甘口の恋愛映画だと想像していたのかも知れない。だが、自ら選び取って、この映画を見にくる行為は、自ら選び取って「恋愛」に飛び込んでいく行為と、何だか似ている。そんなことをふと思わせる映画が「ジョゼ」だ。以下僕の感想を。ネタバレあります。

 自分のことを「ジョゼ」と呼ぶのは、彼女がファンタジーの中で生きているからだ。そして、妻夫木もまた、「クミコ」と呼ばずに「ジョゼ」と呼ぶのは、ファンタジーの中で彼女を愛していたからだ。男の就職、そして親元への旅行、ジョゼをおぶって長い距離を歩く、など、妻夫木が現実と向かい合ったとき、愛は崩れていく。「俺だって年をとるんだぜ」というセリフは、恋がさめていくことを暗示するに十分だ。チープなラブホテルの一室で、つかの間のファンタジーを夢見ることこそ、恋のファンタジーの中でしか生きられない「ジョゼ」と妻夫木の恋を象徴しているのだろう。その茫漠たる幻夢のサマを浮き彫りにするために、犬童監督は、徹底的に恋のプロセスをリアルにシビアに描く。そこには、恋愛映画にありがちな「ファンタジー」はない。ファンタジーがみたければ、「ラブ・アクチュアリー」を見ればいい(あ、これ、とても良かったヨ)。
 要するにだ、この映画は、リアルにも、言わば愛の陰の部分まで描く。「好きな人はウンコもするよ。そのウンコも愛せるかい?」この映画は、我々に問いかけているのだ。妻夫木は、結局愛せない。若さゆえに。「愛のコリーダ」の藤竜也のようには、愛の極限を生きることはできない。ひるがえって、僕らは、どうだろう?
 池脇千鶴が「ジョゼ」を演じている。男性の映画ファンなら、恋人が池脇千鶴そのものだったらスバラシイ、と夢想する。その本人が、永遠の聖女たりうる資格を持った貴種たる池脇千鶴が、愛の極北を生きる「ジョゼ」を演じる。その結果、ファンタジーじゃない「見たくもない」部分まで見せられるのだ。映画好きにとって、これほど残酷なことはない。「それでもお前はジョゼを愛せるか?」という問いは、妻夫木に向けられているとともに、観客ひとりひとりに向けられているのを、男性なら痛切に感じるだろう。僕たちは、ひとりひとりが妻夫木だ。さらに残酷なことに、監督は、上野樹里というリンゴまで妻夫木の鼻先にぶらさげてみせるのだ。

 最後の妻夫木の号泣。僕は「ノルウェイの森」を思い出した。「ノルウェイの森」では、女は、精神分裂病または発病寸前である。「ジョゼ」では、女は「こわれもの」と呼ばれ、オババの押す「乳母車」に閉じ込められている。「闇」の世界から、彼女は現実の世界へ引き出される。主人公の男は、女の世界に次第にひきこまれていき、非現実のなかに奇妙な愛とやすらぎを見いだし、やがて破局していく。そうした構造が、男の側から見ると、「ジョゼ」と「ノルウェイの森」はよく似ている。ふたつの作品とも、キーワードは「若さと苦さ」。それは、僕らの「若さと苦さ」に重なるのだ。
 「愛とは決して後悔しないもの」なんてことを言った映画があったが、なあに、若い頃の恋愛は、必ず後悔するものだ。
 だが、若さゆえ、回復力もたくましい。それを知っているから、これほど辛い映画でも、見つめつづけることができる。ラストの我々は凝視できる。
 たくましくも日常を生きるジョゼ。ラスト、ひとつだけ魚の切り身を焼く。そして、彼女は、食卓へ向かう。最後の最後、台からストンと畳に落ちる彼女は、とてもチャーミングだ。そんな彼女の料理を誰かが食べると、その誰かは、また彼女と恋におちるのだろう。そう考えると、僕には、とても希望に満ちたラストのように思える。とても苦いけれど、この映画の楽天性を、僕はとても愛しく感じるのだ。

 

絞殺木の下で

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 2月 1日(日)14時55分16秒
   日々戦場である。

 忙しい。休みがない。体が苦しい。いっそのこと、倒れてしまえたらいいと思うが、元来丈夫な方である。ストレスが蓄積し、目に見えないところで自分の体が蝕まれていくのが、何となくわかる。

 ツケはいつかは払わなければならない。

 もっとも、現実は、無数の「やらなければならない」ことがあるので、倒れることもできないのだ。生徒に直結している数多くの仕事と、それこそ無数の、空虚な雑事。当然、僕は前者を優先するから、良心的にやろうとすればするほど、後者が残っていく。割り切れる人はいい、と忸怩たる思い。

 1月は何日徹夜したのだろう。だが、雑事はなくならない。締め切りを過ぎている仕事がたまっていく。

 皆が忙しいのだよ。同僚は暗黙の了解のうちに、やれやれとため息をつく。おそらくそうだろう。のろのろと僕は書類にとりかかる。だが、ふと思う。

 これを/戦争状態/と/いう/の/では/ないの/か。

 日々の雑事。蓄積する疲労。こうして人は正常な判断力をなくしていくのだ。
 戦争の足音はすぐそこまで聞こえてきているというのに。
 それでも僕は雑事を前に、茫然とすることすら、今はうまくできない。

 ジェット機の爆音が聞こえても、見向きもできない。
 

ラスト サムライ

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 1月27日(火)14時28分32秒
   純粋にその作品を、「作品の出来としてだけ評価する」ということは、なかなか難しい。そう強く感じたのは、アメリカ人が作った、日本を舞台にした映画「ラスト・サムライ」を観たからだった。

 僕はこの映画、いくつかの点でノレなかった。なぜかというと、日本についての描き方が、いくつか気になったせいである。いやもちろん、過去の日本を描いた作品と比べて、それほどヒドイというわけではない。この映画は、日本の歴史や風俗、生活をリサーチして作られているように見受けられる。(こんなホームページがある。参考にどうぞ。http://www.geocities.jp/last_samurai_2ch/faq.html)ただし、まったくのファンタジイでないがゆえに、気になってしまうことだってある。それは「日本」「日本人」「武士道」「明治」「近代化」などを、観た者がどうとらえているのか、という部分だ。

 もっとも、アメリカ人なら、この映画を観ても、さしておかしいとは思うまい。それは、「アメリカ人が作った、外国(たとえばヨーロッパ)が舞台の映画」を日本人が見たとき、それほど違和感を覚えないのと同じようなことだ。僕は「日本人だから」、日本をそれらしく描いているこの作品に違和感を覚える。だから、僕の感想は、イデオロギッシュにならざるを得ない。
 人が何かについて語るとき、イデオロギーからは逃れられない。「スター・ウォーズ」のような、空想上の場所を舞台にしたSFやファンタジイでも、作品が作られた社会状況や作り手の持つ意識は、作品の中に塗り込まれており、そうした部分を、人は個々人の基準で解釈してしまう限り、あらゆる感想は、主観的なものでしかない。以下、僕の文章もイデオロギッシュな感想である。

 「ラスト サムライ」で、僕が一番ひっかかったのは、日本人側の主役であるカツモトの描写だ。とくに「侍=社会的存在である」という視点の見えないことが気になった。
 この映画、「ブシドー」を「個人としての生き方」を追求するもののように描いている。個人主義の国民が作った作品だからか。しかし、死の大義は、個人的な、己のプライドだけではないだろう。武士には「統治者」としての側面もある。

 カツモトは人々から敬愛されているのだろうか。(まさか単に舶来好きの偏屈な人物というわけではあるまい。もしそうなら感情移入などできない)。この映画には、カツモトが「統治者」として優秀な人物かどうかを観客が理解する具体的なてがかりが、ない。彼が下の者をどう考えているのか理解される描写が、さりげなく挿入されていたとしたら、ドラマに奥行きが生まれたかもしれない。
 象徴的なのは、勝元の根城の周辺には、田圃がほとんどないことだ。本当にカツモトは統治者なのか? 百姓はどこにいる? まさかカツモトは、「地獄の黙示録」のカーツ大佐のような存在なのか?

 もちろん、アメリカ映画だから、トム・クルーズから見たサムライ観を描くことが優先されるのは当たり前で、僕の指摘は、ないものねだりなのだろう。でも、カツモトには、死を覚悟して戦場に赴く部下のことも、そして残していく民百姓のことも、もっと気にかけるリーダーあってほしい。カツモトが心を通わせるのは、トム・クルーズ扮するオルグレンばかりなり。カツモトの死に際して、なぜその隣にオルグレンがいる? それっておかしくないか? 
 

シェイクスピア

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 1月27日(火)14時20分14秒
   閑話休題。
 先日、「ミスティック・リバー」の感想を書いたところ、古田彰信プロデュースでは知る人ぞ知る、BOSEさんからメールをいただいた。「ミスティック・リバー」についての内容である。

>『ミスティック・リバー』はシェイクスピアだったね。
>ショーン・ペンはマクベスだし、犯人はオセロ、
>過去の因縁が悲劇を生むのはタイタス・アンドロニカス。
>クライマックスのカットバックなんかは、
>まるでハムレットを思わせるようなものだった。
>重厚かつ丁寧。それでいて娯楽作。いやいや、凄い映画だった。
>シェイクスピアだと思うと、アンハッピーエンドでもアメリカで受け入れられたのも
>当然という気になってくる。
>3人の男の中では、私はティム・ロビンスが一番印象的だった。
>鬱屈した純粋が狂気に蝕まれている様子が、歩き方や落ち着かない目線に
>よく表れていたと思う。

 指摘されて、あっと思った。観ていた時は全然気づいてなかった。確かに、非ハリウッド的な、アンハッピーエンドな結末を採用したことも、シェイクスピアの劇構造を援用しているとすれば、欧米人にも受け入れられるのも説明がつく。我々が考えるより、シェイクスピアの戯曲は、彼の国ではずっとポピュラーなのだろう。
 あ、それから、先日、米アカデミー賞の前哨戦と言われるゴールデン・グローブ賞の発表があったが、助演男優賞は、「ラスト サムライ」の渡辺謙らをおさえて、「ミスティック・リバー」のティム・ロビンズが受賞したようだ。

 tonboさん、諸事のため僕は城東高の「幽霊部員はここにいる」を観ていません。この作品について、今のところ僕に何かを発言する資格はありませんが、前年度の城東高「マイナスイオン」の出来からすれば、耳目を引くに足る作品だったことは想像がつきます。幸いにも、今後観る機会もあると思うので、そのときを楽しみにしておきたいと思います。
 

城東高校クリスマス公演「幽霊部員はここにいる」

 投稿者:tonbo  投稿日:2004年 1月22日(木)01時57分30秒
  かなり前の話になって恐縮です。
城東高校のクリスマス公演「幽霊部員はここにいる」
四国大会ではトミニシの皆さんとしのぎを削った作品であろうと思いますが。

実はtonboは徳島県大会の時に、他校のお手伝いの合間をぬってこの作品を何とか見ることができました。そのときは部員の幽霊が幽霊部員を部員に仕立てあげるという大筋の情報がパンフ及び題名から観客に与えられていることと、過去の文化祭から未来の文化祭へと向かうわかりやすいストーリーも手伝って丁寧な舞台だなあ、という印象を受けました。そこでクリスマスに文化の森でまたもや公演があるという情報を仕入れたtonboは行ったのですよ、クリスマスに一人で孤独に。

見ていて気づいた細かい変更点をあげていくときりがないのですが。僕が徳島県大会と、この舞台で一番大きく、重要な変更点はラストだと思うのです。ラスト、徳島県大会時には幽霊部員たちが自己紹介を行うだけでおしまいでした。しかしこのパターンではその幽霊部員たちの後ろで部員の幽霊たちがクリスチャンの幽霊を送っていました。これが一番効いていたと思います。それまでのストーリーだと観劇後、贋作クリスマスキャロルの方の印象がかなり大きかったです。ですが、この変更で最終的なバランスを本筋の幽霊部員と部員の幽霊の交流の方に取り戻せていると感じました。ここいら辺りがもう演出の妙であるなあ、と。

所々台詞の歯切れが悪かったりする場面もありましたが。全体的に、特にセットや段取りが丁寧だったと思います。その丁寧さは舞台だけでなく会場運営、パンフの配布、アンケートの実施などにも及んでいたと思います。

うちにはまずこういう丁寧さはないなあ、と痛感させられました。あったらなあ、あったらもっとまとまったものが作れただろうなあ、と想像しました。ただし僕が感じたのはあくまでも繊細さではなく丁寧さです。僕ははっきりと繊細さを愛します。僕は丁寧さを否定しませんし、それはノウハウであり、繰り返す内の成功率、歩留まりをよくするためには絶対に必要なものです。でもどちらかと言えば僕は歩留まり、とか帳尻合わせが苦手なので「じゃ、帳尻合わなくてもいいじゃん」で済ませてしまうタイプです。ただ「帳尻合わない分は本当に必要?」ってその後に聞くんですが。結果だいたい「必要なし」となっていつの間にか無意識のうちに帳尻合わせをしています。やっぱりどーんとぶち抜いて放っておくような剛胆なまねはできないです、小心者です。

蛇足が多くなりましたね。結論としては個々がよく訓練されているし、ノウハウがあって演出も上手いのでとてもきれいにまとまった舞台になっておりました、ということです。松高も見習いたいです。残念なことに四国大会は見ていないのですが、おそらくこの時点よりもさらに向上しておったのだろうな、と思います。城東だけでなくトミニシや他校も含め四国大会を見られないのが本当に残念でした。
 

映画「ミスティック・リバー」

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年 1月19日(月)19時36分43秒
   とりあえずセンター試験が終わりました。徳島大学では、他の学校の演劇部の顧問の先生方にもお会いしました。僕も含め、自分の受け持っている生徒の点数が、どれくらいの成績なのか、気になる今日です。

 ここの掲示板も、しばらく止めてしまっていました。久しぶりに映画の感想でも。最近シネコンで見て、皆に推薦するのが、「ミスティック・リバー」。クリント・イーストウッド監督、ショーン・ペン、ケビン・ベーコン、ティム・ロビンス主演の、ミステリ風の装いのドラマ。イーストウッド監督らしい、重厚でみごたえのある作品でした。

 「3人の幼なじみの少年たちが子供時代に体験した忌まわしい誘拐事件。それがすべての始まりだった。1人が車で連れ去られ、2人はそれを見つめるしかなかったその日、彼らの少年時代は終わりを告げた。25年後、大人になった3人は、悲惨な殺人事件を通して再び出会うことになる。1人は娘を殺された父親として、1人は刑事として、そしてもう1人は、容疑者として――(http://www.warnerbros.co.jp/mysticriver/intro.html)」

 25年の歳月に織り込まれた因果と運命。そして必然。人生の暗部に澱のように沈殿した陰の部分に、繊細かつ大胆にメスを入れた、骨太で誠実なドラマです。
 ミステリの装いを取りながら、実は謎解きに比重が置かれているわけではありません。事件によって愛する者を失った悲しみや「喪失」を丁寧に描くことに主眼が置かれています。ラストも、決してハッピーエンドではなく、とても重厚で非ハリウッド的なのが印象的でした。

 ストレートな感動を与えてくれる作品ではないかもしれません。心地よい、口当たりのいい映画ではありません。しかし、多くの観客にとって、人生とは何か、生きる意味とは何か、そして自分の陰の部分を見つめ直すきっかけになりうる作品だと思います。わかりやすい感動や、刹那的な笑いを求める観客の多い昨今、こうした映画がロードショー公開されることは、とても貴重だと思いました。

 映画評論家の服部弘一郎は、HP「映画瓦版」のレヴュウで、「しばしば登場する十字架のモチーフは、この映画のテーマが「原罪」であることを象徴している」と述べています。「…この映画で描かれる原罪とは、この世のあらゆる人間が持つ弱さや不完全さのこと。……自分たちの卑小さを、臆病さを、そして愚かさを、三人はこの事件を通して骨の髄までたたき込まれてしまう。自分自身の姿を、ありのままに見せつけられたときに生じる心の負い目。この瞬間にイノセンスは失われるのだ。アダムとイブが、自分たちの裸体を恥ずかしがったのと同じように……(「映画瓦版」http://www.eiga-kawaraban.com/03/03120302.html)」

 僕は、人が死んだときの、どうしようもない「喪失感」や、それでもこなしていかなければならないやっかいな日常的な些事を思い出しながら、「どんよりとした気持ち」で「自分の感情と絶えず向かい合う」しんどさをかかえながら、この作品と向かいあっていました。
 どんなつらいことがあっても、自らが不完全であることや弱いことを思い知らされても、私たちは、それを引き受けながら、日常を生きていかなければなりません。
 ちょうど、センター試験で点が取れなくても、二次にむかわなければならない子どもたちのように。

 イーストウッドの演出は、奇をてらわない正統的なもので、演技もわかりやすいものです。サジ加減は、さすが娯楽性と芸術性を両立しようとするイーストウッドの面目躍如だと思いました。「スタンド・バイ・ミー」のような爽やかな感動作ではありませんが、お薦めできる作品です。
 

肉体性ということ。

 投稿者:tonbo  投稿日:2003年12月23日(火)00時35分11秒
  お忙しい中、お返事頂きありがとうございます。
私もトミニシ★エンゲキの皆様が四国大会直前であることに配慮するべきでした。

私は高校に入学する以前から詩を書いておりました。書き始めた頃はよく言えばストレートな、ひどい言い方をすれば読む相手のことを考えていない心情吐露の詩を書いていました。もちろん、そのようなもの人様の目にさらすわけには参りません。もしばらまかれたら羞恥から不登校になっていたでしょう。ただ、それらを誰かに見せたいという欲望は確実にありました。そんな時、インターネットというのは便利なものでそういう分野の方と全くつながりの無かった私でも、匿名性に守られながら見知らぬ方しかいない、またそうであるが故に安心して詩の世界に踏み込んでいくことができました。そこで私は現代詩と衝撃の出会いをしたのです。それは新鮮さを通り越して「なんじゃこりゃあ!!」でした。しかしそれらは私の心の何処とはわからない部分をつかんで離しませんでした。それまで私が書いていた心情吐露とは全く違う形。しかし単純な心情吐露とは比べものにならない感情の噴出を覚えたのです。言葉が「肉体性」を持つというのを初めて実感したのは、私にとって小説でもなく戯曲でもなく詩でした。これはこの数年間どっぷり詩に体を漬け込んで体感したことなのですが。詩というのは感情の発露であり、詩情を言葉というツールを用いて具体化したものだ、と考えるのです。そして私は優れた詩には皆「肉体性」があると思っています。「肉体性」というのは私が何かの本で(詩とは全く関係ないジャンルの本で)見かけた言葉で、表現にちょうどぴったりだと思って用いているものです。それはただの言葉にとどまらず、読んだ者の思考ではなく感情に訴えかけるものです。(もちろん谷川俊太郎の「定義」のように思考を促すという意味で優れているというべき詩もありますが)

さて、これらのことは詩だけにはとどまらないのではないでしょうか。同じ文学である小説や戯曲、他の分野である音楽や絵画に於いても優れた作品を創るためにはそこに「肉体性」が求められるのではないでしょうか。演劇に「肉体性」が求められる。なんだかとても当たり前のようにも聞こえます。人間が演じるのだから、そこには当然肉体があるはずです。

徳島県大会、私は舞台監督としてどうしていいかもわからないまま照明、音響に必死で指示を出していました。しかし今になってあの舞台を思い返すと、そこに「肉体性」があったかと言えば疑問です。私はどの観客よりも役者の近くにいました。私は役者の汗まで見える位置に立っていたはずです。しかしあの舞台を思い返してもそこには汗の一滴すら現れないのです。ブラウン管越しの深津絵里には吐息まで感じたというのに。

そして今日のことです。私は仲間と次回公演に向けて役を割り当てて台本を読む練習をしていました。私は自分で書いた台本なので、書き上げて三日後にはほとんど台詞を覚えて、すらすらとよどみなく台詞を読むことができるようになっていました。ですが、私は一人になって台本を眺めていて気づいたのです。私は文章を声に出していただけだ、と。練習の目的はよどみなく読み上げることではなかったはずです。その役の質を表現することが必要だったはずです。それを忘れていた私の言葉はただの繰り言でしかなかったのです。仲間たちがこのことに気づきながら読んでいたのかどうかは定かではありません。しかし、今の私が舞台に上がっても、そこには微塵の「肉体性」も感じられないでしょう。

いま、私は台本を書き直しています。文章を読めば分かることでも、声に出してそれを聞いたとき理解できないことは多々あります。(これは詩のボクシングで学んだことです)また、自分の内側にベクトルが向いたものを書いたという念があったからです。仲間と台本読みをしながら、これではいけないという思いが起こったのです。これは古田先生のおっしゃる台本のレベルに帰るという行為ですね。トミニシの皆様は「水際の魚」に対して何年も前からこの作業を繰り返していらっしゃったのだと推察します。推敲の難しさに耐えることがとんでもない根気を要する作業だと、自分が書く立場になってつくづく感じています。

何だか「肉体性」以降のくだりは自分に対して言い聞かせているようになってしまいましたね。つい長々と書いてしまいました。蛇足ですが12月24日に文化の森で行われる城東高校の公演を見に行く予定です。色々と勉強させていただいてきます。トミニシの皆様も、是非四国大会で素晴らしい舞台を創り上げてください。ご成功をお祈りしております。それでは、また。
 

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