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はじめまして、tonmoさん。きちんとした文章を書かれる方ですね。感心してしまいます。
ちょうど今、トミニシは、四国大会の準備でバタバタしています。tonboさんのご質問は、とても魅力的で、僕もしっかり答えたいと思うのですが、今はじっくり考える時間が取れません。詳しいことは、また後日にでも。
最近出版された、保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」(草思社)という本があります。その中に、こんな一節があります。以下、引用。
「…小説とは、「個」が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある「社会化されていない部分」をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、ふだんの生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない…」
「小説」という部分を「戯曲」というコトバに置き換えてみても、この示唆は有効なんじゃないか、と思います。
演劇は、テクニックでつくられるものではない、と僕は思います。なんだか説明がつかないのだけれど、割り切れない、ふだんの良識的な自分であれば、心の奥深く、無意識のところへ押し込んでしまっているような気持ちや感情を、コトバにしたものが、戯曲なのではないでしょうか。そして、その作者が気づいていなかったことを、解釈し形象し表現する、それが「演出」であり、さらに演出家も気づいていなかった、コトバにならない「演劇的な情報」を舞台に結実させるのが、「役者」ではないかと思っています。芝居を作るという作業は、ひとりで作るのではなく、何人もの共同作業である点が、小説などとは大きく違う点ですね。
今、取り組んでいる「水際の魚」は、県大会の時に、本来60分以上あったものを、50分に短縮しました。県大会の時点では、説明的な描写を削り取ったために、分かりにくい部分が多々あったことは確かです。幸い、四国大会では、作品の長さを60分にすることが許されたので、わかりやすくするための部分を復活させました。しかし、そうした部分は、ややもすると、演劇的な表現ではなく、「説明」になってしまう部分が多いのですね。つくづく我々は、コトバに偏って、表現をおこなっていることを実感させられます。
もちろん、説明的なセリフでも、説明的でなく発することは可能です。しかし、これは、主に、演出や役者の仕事になりますね。
書かれた作品を、芝居の現場に持って行き、そこで試して、また台本のレベルへ帰ってくる。その繰返しが、作品に命を吹き込ことなのではないでしょうか。
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