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THE JUON 呪怨

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 3月 2日(水)23時42分40秒
   恐怖は人間の根源的で本質的な感情のひとつである。ショッキングでセンセーショナルな売り方がされるため、恐怖映画はキワモノ的な扱いを受けることも多いが、人間の内面や無意識にスポットを当てた作品も多く、侮れない分野であると僕は思っている。偏見や先入観を捨てて映画に臨むことを肝に銘じたい。

 「THE JUON−呪怨−」は、先に作られた同名映画を、サム・ライミ製作、アメリカ資本・アメリカ人俳優を使って作られたリメイクである。ただし、監督は日本版「呪怨」を撮った同じ清水崇監督。舞台も日本で、ストーリー展開も、ほぼ日本版と同じ。

 サム・ライミはインタヴュウで「あの素晴らしい日本版と同じものが欲しかったんです。彼は非常に繊細なタッチを持っていて、コケ脅しじゃない静かなやり方で不安をかきたてていきます。それが私の心を動かしたんです。だから何も変えたくなかった。ただアメリカの観客が観やすいように英語を話す俳優に変えただけです」(1)と話している。

 (1)週刊SPA! 2/15号 101ページ

違和感あるアメリカ人俳優

 実際、リメイク版の印象は、オリジナル版「呪怨」とよく似ている。ただし、登場人物をアメリカ人に変えたために、違和感あるシーンが増えたことも確かだ。

 それがもっとも感じられたのは、アメリカ人俳優の存在感である。残念ながら、この映画のアメリカ人俳優は、うすっぺらいデクの棒であると言わざるをえない。何を考え、何を食べ、何を思って生活しているのか。人物造型が不十分なことが、観客にまで伝わってしまうのが残念だ。

 もし、優秀なアメリカ人のアドヴァイスを受けてこの作品が作られたとしたら、劇中に登場するアメリカ人は、もっと生き生きと描かれていたかも知れない。彼らはなぜ日本にいるのか。それぞれ滞在期間はどれくらいか。日本文化のとらえ方について、どんな差があるのか。これらのことを考え、ちょっとした変更を施すことで、登場人物にふくらみを持たせることはできなかっただろうか。それらは本来、役者と演出家の共同作業のはずである。

 また、細かい設定も、もっと周到に考慮すべきだ。会計士であるアメリカ人が、母親を連れて日本に来るのは、やはり変だ(短期の滞在中に倒れたのなら分かるが、夫婦は、それほどあたふたしていないように見えるのも疑問だ)。そして、サラ・ミシェル・ゲラー扮するカレンは、ケア・センターでアルバイトをしているが、彼女は日本の老人を本当に相手にできるのか。と思ってしまうのは、外国人に対する僕の偏見というよりは、サラ・ミシェル・ゲラーの頼りなさそうなたたずまいのせいである。最初は、アメリカ人のおばさんの介護も、日本人が担当していたから、外国人専門、とかいうのではなさそうだ。

 反対に、石橋凌扮する刑事などは、たたずまいが落ち着いていて、非常に魅力的に感じた。日本人は、やはり日本人をうまく描く。いや当たり前のことだが。

 仕事や留学で来日すること自体、普通のアメリカ人にとっては非日常なのだから、「異文化の中のアメリカ人」という設定を積極的に生かして、アメリカ人の孤独や不安を浮き彫りにしたり、「アメリカ人であること」を改めて考え直したりする描写をスクリーンに刻みつけるというアプローチはどうだろうか。日本をエキゾティックに描く、というのもひとつの方法ではある。日本人が観る以上に、アメリカ人は、日本の町並みや東京の様子に「異世界」を感じていると思う。

 怖さという面では、アメリカでセンセーションを巻き起こし、評価が高いだけに、映画としての完成度がさらに高ければ、清水崇の名はさらに高まったに違いない。ジャパニーズ・ホラーは、現在のところ、非常にいい形でアメリカに紹介されている。丁寧な映画作りが行われれば、それが彼の国での日本映画の評価の定着につながるのである。

 とは言え、今まで清水崇監督のような形でアメリカ進出をした監督はいなかった。清水崇が撮ったからこそ、リメイク版「呪怨」は、オリジナルの手触りを持つ作品に仕上がったのだ。これは歴史的快挙なのだ。そのことを忘れてはならないと思う。
 

観客にどう伝えるか(1)

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 2月25日(金)19時58分55秒
   「破稿 銀河鉄道の夜」という作品は、いろいろな制約のおかげで従来やれなかったことにチャレンジできた作品であった。演技面では、「(1)リアリティという見地から、役者の詳細な演技をかなりの時間をかけて矯正したあと」、「(2)誇張や観客を意識した動きを加え」、演技が鮮やかに見えるように処理した。トミニシ★エンゲキでは、数年来、(1)のプロセスを重視して作品つくりに努めてきたが、今回(2)のプロセスを演技的にかなり意識的に行ったのは、観客に届ける方法について、トミニシなりに問題意識が深化したからにほかならない。演技以外でも、たとえば正面奥から観客席にむけて放射状に広がる台形の平台と発泡スチロールの天井が、一点透視法による構造体の流れを作り、演技が観客に届くためのしかけを企んだのもその一環だ。

 「観客にどう届けるか」ということについて、トミニシ★エンゲキでは、いくつかの段階を経て作品つくりを行ってきた。いささか古くなるが、過去の作品の話をすれば、96年の「海と日傘」の頃は、観客を意識するあまり、リアリティを損なう演技を舞台に乗せてしまった。その反省から、その後は、リアリティを損なわないことを第一の目的として、演技的を実際の行動に近づけた芝居つくりを行ってきた。前述のプロセスで言えば、(1)のプロセスを重視した作品づくりということだ。
(つづく)
 

観客にどう伝えるか(2)

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 2月25日(金)19時56分49秒
   (つづき) 
 しかし、演技を実際の行動に近づけただけでは、演技は魅力的にならない。最近演劇部の活動に熱心でない僕が、そのことを久しぶりに思い出すことができたのは、美術手帖2005年3月号(美術出版社)の特集「宮崎駿監督作品「ハウルの動く城」を読み解く!」を読んだからだった。木村覚「老体の城が動く、ということ」には、こんなくだりがある。


 ・・・・宮崎の画は「すみずみまで悦ばしい運動の航跡によって埋め尽くされている」(斎藤環「フレーム憑き」青土社、2004年)。斎藤環はこう語り、一般的なアニメと宮崎作品との最も大きな相違を運動への意識にみる。なるほど、「止め絵」を用いない、シーンの迫力を背景処理や効果音、極端なクローズアップで強調しない、主人公のモノローグを入れない、メタ世界(楽屋裏や「お約束」)を描かない」といった「禁欲」によって、近ごろの一般的なテレビアニメより宮崎の画は動いてみえる。そこには、彼のフル・アニメーションへの意志が反映されていよう。
 しかし、相当に慎重かつ大胆に動きを統制するある種の美学を持ち込まない限りは、フル・アニメーションの動きは決してリアルにも魅力的にもならない。実際、とくに近年の、実写に近づけようとする宮崎の試みを省みれば−−若いソフィーの堅い動作が端的に告げるように−−動きで観客を魅了するには至っていない。複雑な日常動作のひとつひとつをトレースすれば、画はむしろ魅力を欠き単調になる・・・・。
 ・・・・このことは、ディズニーアニメと比べるとき最も明瞭になる。例えば「バンビ」であれば、バンビのキュートに振るシッポや弾む歩行をはじめ、すべての動物いや森羅万象が動きの愛嬌、かわいさを湛えて、画は最初から最後まで躍動的であり続ける。あるいは、森にはぐれた白雪姫が歩くたびに、それぞれ自由にしかし彼女の一挙手一投足に瞬時に反応しながら、無数の小動物たちがさながら小川の流れのようにうねりつつ進む「白雪姫」の一シーンを想起してもいい。
 ・・・・おそらく、彼はあえてそれを回避しているのである。しばしば言及されるように、宮崎のなかにはディズニーやそれに多大な影響を受けた手塚治虫に対する反発がある。宮崎によれば、仮に悲劇的な物語を持ち込んでも、彼らは「意識的に終末の美を描いて、それで感動させよう」(宮崎駿「出発点1979〜1996」徳間書店、1999年)とする。そこに、世界を美化して深刻な問題を忘却させる魂胆を嗅ぎとる宮崎にとって、動きをなめらかにする選択こそ危険なのだ。・・・・そこに透けて見えるのは、世界を統制する美に抗う抵抗の姿勢である」


 「アニメーション」を「演技」に置き換えたとしても、この指摘は的を得ていると思う。宮崎駿の「フル・アニメーションへの意志」は、演劇における「リアリティへの意志」である。世界を写し取るための表現手段として演劇がある限り、こうした「リアリティへの意志」は、多かれ少なかれすべての作品に通底しているものだ。たとえそれが、「ある種の美学を持ち込まない限り、役者の動きは決して魅力的にならない」ことがわかっていても、それを追求してきたのは、僕なりの「世界を美化したり統制したりする権力装置に対する抵抗の姿勢」にほかならない。

 「破稿 銀河鉄道の夜」では、まず台本と役者を見つめることを前提としながら、「(1)リアリティを追求するプロセス」と「(2)観客に伝えるための演出を加えるプロセス」を明確に分離して指導をおこなった。もちろんそれは、(1)に対する意識が我々の側から拡散するのを防ぐためである。「ある種の美学」を取り入れることには、その表現が真に効果的なものか、手垢のついたものではないのか、我々はとくに慎重にならないといけない。その姿勢が、手法はいくら変わっても、トミニシ★エンゲキの芝居を、トミニシ★エンゲキたらしめていると考えるからである。

 

パッチギ!

 投稿者:sugimoto  投稿日:2005年 2月 8日(火)20時59分23秒
   他所でも書いたのですが、この映画、見る立場によってさまざまな意見が出てきそうです。しかし、映画の中で語られる「歌ってはいけない歌なんてこの世界にはないんだ!」という言葉のように、あえてこの映画を作った、それも青春娯楽映画として作った井筒監督に拍手を送りたいと思います。議論は見た後いくらでもすればいい。
 「イムジン河」が心にしみます。この歌が放送禁止歌になるような時代を二度とくり返してはいけません。
 追伸:同監督の「岸和田少年愚連隊」も名作です。
 

大傑作「パッチギ!」を見よ!

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 1月24日(月)01時54分21秒
   今の映画は、キレイに作られすぎる。多くのシナリオ指南書に沿って作られたような、大量生産された脚本。商業主義のもと、抜け目なくマーケティングされ、糖衣にくるまれた映画たち。いびつさや、荒々しさは見受けられない。だが、洗練されればされるほど、映画はエネルギッシュな力や、ある種の本質的な力を失うことも多い。

 「パッチギ!」は、決してウマイ作品ではない。ドラマは途切れ途切れで、行き当たりばったりである。シナリオ・スクールに行くと、その台本は、大きく赤鉛筆で手直しされることだろう。

 しかし、はるか以前、物語は、シナリオ・スクールのノウハウによって書かれるものであっただろうか。断じて否。ノウハウなどなかった。神話の多くは、口伝されるなか、自然に直感的にできあがっていったのだ。したがって、物語(神話的物語)とは、古来より、意味不明の部分、枝葉、わけのわからなさを本質的に含んでいるものであった。

 「パッチギ!」に横溢しているのは、洗練には程遠い、さまざまな要素である。1960年代後半の京都、在日朝鮮人たちと日本人のケンカと交流を描いたこの映画は、当時の、ダサくておおらかな時代感覚や、そこで生きる者たちの、あふれんばかりの「情念」をうまくすくいとっている。

 「情念」とは、具体的には、日本の支配によって虐げられてきた怒りであり、祖国を東西冷戦によって引き裂かれた人々の無念であり、ケンカにあけくれる高校生たちの即物的・衝動的な怒りであり、理屈を超えた朝鮮人の女の子に対する思慕の情などである。恋人や子どもに対する愛情や、祖国愛や友情である。こうしたさまざまな情念が、ラスト近くで大きく束ねられ、強い奔流となって観客の心を大きく揺さぶる。

 事故で死んだ朝鮮人の高校生。棺桶が、貧しい小さな家に入らない。棺桶を家に入れるために、男たちが石鎚で壁を取り壊す。慟哭する家族の無念さを見よ。また、通夜にやってきた日本人の主人公を、声を荒げて追い返す朝鮮人の老人の心に積もった怨念。そして、越えられない壁を感じ、音楽の無力さを感じた主人公が、大切なギターを橋の欄干にたたきつけ、川に投げ捨てる、そのやりきれなさ。洗練されているかどうかは関係ない。誠実に心を震わせる役者の醸し出すやるせなさや、無念さに、僕は涙を禁じ得なかった。

 越えようとしても越えることのできない、人々の間の亀裂を、フォーク・クルセーダーズの「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」に象徴させ、観る者の情感に訴える。とても印象的で、心に残るはからいだ。

 文句なしの傑作だと思う。必見。
 

ありがとうございます。

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 1月10日(月)07時18分4秒
  95年 銀河鉄道と夜−輪廻転生
96年 海と日傘
97年 白の揺れる場所
98年 鈴虫のこえ、宵のホタル
99年 水際の魚
00年 今日の日は さようなら
01年 カガミ ツキコの冒険
02年 カガミ ツキコの冒険
03年 水際の魚
04年 破稿 銀河鉄道の夜

 近藤さんに指摘されて気がつきました。僕のトミニシ★エンゲキは、銀河鉄道で始まって、銀河鉄道に戻ってきたのですね。

 95年の「銀河鉄道と夜」は、コント風のコミカルさやケレン味あふれた芝居でした。その後、僕の関心は、抑制された表現に向かいましたから、10年間のコンクール作品の中では、とりわけ異質な作品だったと思います。
 今回の芝居に関しては、「外に開く」必要がありました。「外に開く」とは、役者同士の関係であり、観客との関係であり、その他の人々との関係でもあります。今の構成メンバーは、他者とかかわることが、あまり得意でないメンバーです。それでも、演劇を成立させないといけませんから、そりゃもうしつこく指導したものです。ことあるごとに言いました。演技的にも、演出的にも、箸のあげおろしから、しまいにゃ泣き方まで。セットも、開いて見えるように作りました。その結果、トミニシとしては、「古田としては精一杯エンタテインメント的」な芝居になったのだと思います。

 「10年前の高校生への作りこみの演技」という指摘も、おっしゃるとおりだと思います。「破稿」の舞台になった10年近く前、ケイタイやメールは普及していませんでした。人間関係も、今と比べれば、濃厚だったと思います。人間関係の希薄さそのものを意欲的にすくいとろうとした「カガミ ツキコの冒険」とは、表現のありようも、大きく変わるのは当然と言えましょう。

 ともあれ、近藤さんのように、観て「解釈」してくれる観客があることは、とても幸せなことだと思います。やはり、僕は、無意識にひっかかるような作品を作りたい。一見すべての人が「わかる」芝居の価値を否定するものではありませんが、観客の足元を揺さぶるような、そして多種多様な解釈が可能なような、そんな楽しみを残した芝居を作りたいのです。

 そして、観る側としても、解釈する姿勢を大切にしたいと思っています。
 

手前味噌で…

 投稿者:近藤理恵  投稿日:2005年 1月 8日(土)00時35分14秒
  緞帳が上がると暗い舞台にたくさんの人が立っている。そして、何かに祈りをささげる。
富岡西高校「破稿 銀河鉄道の夜」の始まりでした。

いままで、富岡西高校で演じられてきた「破稿」は、リアルな舞台設定に、等身大の役者が立つというスタイルで統一されていたように思います。
しかし、今回はそれが大きく変わっていました。
屋根のある舞台装置。壁には、震災時の新聞が白く塗られている……。
それは、古田先生の板野高校時代の創作「Mの悲劇」を髣髴とさせるような存在感があったように感じます。(現役の皆さんは知らないかもしれないなぁ。残念…;;)
中央が開き扉になっている点も同様で、そこで祈りをささげるコロスやいくつもの緑と赤のデジタル時計は、時や神秘的なるものへの象徴が色濃く演出されているように思いました。
それは、1995年、同じく富岡西高校が四国大会で上演した「銀河鉄道の夜 輪廻転生」に通じる、忠実な《古田的》生死への表現だと、私は思いました。(たとえば、今回祈りをささげていたコロスは、輪廻転生では骸骨の仮面をつけたコロスとなっています。いずれも、死を前提としたスタンスで演出されていました)
それは、とても死に対して冷たく、そして裏切った温かさがある、そういうギャップが印象的な演出。(ことばでは書けません。すみません。)
古田先生が持っている生命観、世界観を前面に押し出したんではないでしょうか。
どうですか? 先生??

また、そこで演じられる高校生は、10年前の等身大の高校生で、いまの高校生とは少しはなれた、そんなイメージを感じさせられるつくり方でした。
あえて、正面を切った立ち回りや感情の起伏が大胆に表現された演技は、10年前の高校生への作りこみの演技であったのでは?
いままでは、実際の部員さんをモチーフに演出されていました。『ローソンはいいものから〜ラフ・スケッチ〜』『白の揺れる場所』『女子高生症候群』『水際の魚』に見られ、そして『カガミツキコの冒険』で極められた表現。
しかし、今回は阪神大震災の事を取り上げた既成台本での上演らしく、しっかりとした演技で、私個人としてはある意味(富西のコンクール作品の中では)エンターテイメント的な演出だったと思います。
既成の台本なんて、『鈴虫のこえ 宵のホタル』いらいでしたか?
ある意味、『海と日傘』以来の濃い演出だったと思います。

 部員さんの演技も大変しっかりしたものでおどろきました。久々にちゃんとした演劇を見たように思います。
ただひとついえることは、熱演では少しだめ。
舞台上で、本気泣きをすると会場は引いてしまいます。
それは、舞台の上に立つものとして、気をつけておきたいなあと思うことです。
でも、掛け合いや間の取り方、小さな表現にも気を配った演技は秀逸でした。
ブラのくだり、よかったよ!!

富西、古田暦10年。
表現の仕方、演出方がちょうど環状線のように一回りしてきたように思います。
これは、今後、古田彰信がどのような演劇観に展開していくのか、とても楽しみです。
再び、天王寺に行くのか、それとも新幹線に乗り換え、東京のほうに行くのか。
それとも、今は無き阪神フェリーで海に出るのか。
……すみません、変な事を書いてしまいました。
でも、なんだかそんな感じで、楽しみです。
時代に沿い、そして裏切り続ける古田先生は、私の追いかける人。
早くその背中に追いつけたらと考えます。

 最後になりましたが、部員の皆さん、おつかれさまでした。
高校での舞台は、一生残る大事な舞台です。
それを思い出にするか、過程にするかはこれからの自分しだい。
がんばってね!

 

ポーラー・エクスプレス

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 1月 3日(月)14時04分57秒
   公開終了が近い。ネタバレ込みの詳細な映画評。

 リアルなフル3DCGアニメーションで描くクリスマス映画。彼の地では有名な絵本の映画化。英語版は、名優トム・ハンクスが、何役もの主要な声の出演を兼ねた。クリスマスの夜、少年は、家の前に着いた北極行き列車に乗って北極点をめざす。

 「幻想的な列車」という設定で、僕がすぐに思い出すのは、「銀河鉄道の夜」である。僕は、富岡西高演劇部で「破稿 銀河鉄道の夜」という作品に取り組んでいたこともあって、「ポーラー・エクスプレス」は、「銀河鉄道」なのか、という浅薄な興味で、この作品を観た。
 
 フル3Dアニメの巧みさは、多くの評者が指摘している通り。妙に生々しい表情の動きなど、この手の技術の進歩には目を見張るものがある。幻想の中に立ち現れる列車が、CGという魔法によって、スクリーンの中に立ち現れるという趣向は、CG特有の画の気持ちワルサはともかく、内容と手法が一致している点では、秀逸だと思う。僕は、アイマックスシアターで観たかった。

 映画の三分の二は、北極を目指す列車と少年たちの冒険。少年たちは、試練(通過儀礼)を経て、北極点にたどり着く。そこは、エルフの国。そこで、サンタクロースに出会った少年は、子供の代表として選ばれ、サンタクロースから直々にプレゼントをもらう。誇らしい主人公の少年。この経験のおかげで、少年は、サンタクロースを大人になっても信じ続けることになる。

 旅は、成長のアナロジーとして用いられることが多いが、ここではそうではない。北極は「エルフの国」ならぬ「神の国」、サンタは「キリスト」、プレゼントは「恩寵」であり、ラスト、丁寧にも車掌は少年の切符に「信じる」と刻んでくれる。これは、あからさまな信仰礼讚だ。クリスマス映画だし。「ポーラー・エクスプレス」は、「銀河鉄道」ならぬ「キリスト教鉄道」なのだ。

 もちろん、ここには「銀河鉄道の夜」の無常・輪廻・仏教的世界観は見当たらない。「銀河鉄道」は、霊界とこの世の境をフラフラと漂うように走るイメージ。松本零士のマンガ(「銀河鉄道999」)も、ネコの「銀河鉄道の夜」も、我が国の幻想鉄道には、レールは続いてない。だが、「ポーラー・エクスプレス」は、常にレールを上を走り、そのレールは、北極まで確固として敷かれている。それこそ、理性に根付く近代合理主義か。はたまたキリスト教信仰の強固さか。ともかく、「ポーラー・エクスプレス」は、常にどっしりと、その走りは頼もしい。
 
 ただ、この映画、「子供の成長」や「懐疑の念」を否定しているかのように見えるのも確かだ。ある年齢に達すると、サンタクロースを信じなくなるのは、当たり前の話。それが成長というものだ。だが、この主人公の少年は、奇跡に出会い、信仰を獲得する。これでは、無辜=善であり、成長=悪、ということになりはしないか。子供の心をいつまでも持ち続けるのが善であれば、コアなオタクは聖人だ。
 
 子供の成長を否定してしまっていいわけはない。その点、僕はしっくりこない。キリスト教の論理で作られた物語が悪いのではない。辻褄が合わないのが問題なのだ。
 言い換えれば、「ポーラー・エクスプレス」はキリスト教の「洗脳列車」に見える。そもそも、宗教とは、そうしたものなのだが、そう見えてしまわないようにしないと、異教徒である僕には、チョイとツラい。

http://www.polar-express.jp/

 

「ハウル」を読み解く/BOSEさんからのメール

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2005年 1月 1日(土)01時15分29秒
   あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 さて、またまた「ハウルの動く城」の話。
 僕が違和感を覚えたことのひとつは、
 ステロタイプな女性のイメージを、無防備ともいえるほど安直に使って、 
 作品を組み立てている点だった。
 そのことについて、BOSE氏から、的確な指摘をメールでいただいたので、
 その部分を紹介してみよう。
 
  確かにこれもまた永遠の中学生の妄想。
  守りたい美少女であり、癒してくれる母親であり、
  自分を慕ってくれる恋人であるソフィーは、ほんまに男の勝手な妄想キャラ。
  もちろん、今までの宮崎女性キャラは常にその三役をこなせる者ばかりだったり、
  あるいは役割分担して登場したりしてたけど、今回はあからさま。
  また、脚本書かずにどんどん絵を書いてしまう宮崎の暴走ぶりが
  一番出た作品ではないだろうか。
  だからこそ、時空を超えて広がった話が、隣国の王子が復活して戦争は終わり、
  主人公とヒロインがキスしてハッピーエンドなんて、
  カタルシスのない締めくくりになったのだと思う。
  あ、ラスト、別の意味で「城」あったやん。家庭って城なんだろねぇ、あれ…。
  おもしろかったけど、私の宮崎ランクでは下位にしかいかないな。
 

ではいつも通りちょっとだけ

 投稿者:伊丹来未  投稿日:2004年12月19日(日)00時42分17秒
  ではいつも通り(笑?)会場の話から。(何故かいつもこの話から入る私・・汗)
ウイングフィールド。私は初めて行きました。大阪の心斎橋という栄えている場にある小さな劇場です。
会場はビルの6階という立地で、部屋自体は(おそらく)長細い形でした。
少し意外なのが会場に、当然上演中は使用できないお手洗いが隣接する。ちょっとすごい(笑)
一番驚くのが天井の高さ!推測3メートル。普通の民家の天井高。そこにバーがあり照明が吊られる。
階段状にあった客席の高列の頭上はちょっと危険(笑)
でも劇場がそれぞれ持つ特徴っていうのは本当様々で面白い。。
約50名のお客さんで迎えた初日の魚灯の「この街の底ふかく」。
第一印象は役者さんの声に響きがあって、存在感がある。
簡単によかったと思ったことをまとめると、まずは音楽のチョイスの仕方。
場転で流れる音楽のチョイスが抜群でした。スムーズというか相乗効果といいますか。
あ、この感想は私的には、というので書いてますYO。
場面転換は音がよかっただけでなく、場面転換の手法(と、いうのかな?)も魅力的でした。
同じ場で、一方では演技が続行されながら一方では場面転換が行われる。同じ場の中に演技を続行している役者と場面転換をしている役者が混在する。交わる。横切る。でも見ていてずっと集中が続き、意識も途切れない。邪魔しない。お客が気持ちを置く間にならない。
場面転換についてもうひとつ書くとセピア色の照明が使われたところがあったんですけど、とても印象的でした。色のある世界から、色あせてく様への変貌。何かの歪み。想像を膨らませました。
次に私的には気にかかった点をいうと、これは仕方ないものの厳しい。2時間の上演時間に耐えるには苦しい客席の状況。
お尻がですね、2時間より早く限界を迎えるんですネ(苦笑)座布団2枚だけでは。。
他、長細い、セット、客席だったんですが、会場が狭いため、舞台と客席は間近。それは全然いいんですけど、こういう形態であるため、セットの端の方での演技を追っていると、同時に端に座るお客さんまでが視野に入ってしまうんですね。よって、お客さんが動くとそれが仕方なく目に入ってしまう。ちょっと残念でした。
後、セット自体はですね、抑え目な色なんですが、その上に役者が立つと、衣装がね、浮いて見えてしまいました。
控えめなセットに軽い素材の、あまりにもなピンクの衣装は、役のイメージには合ってもこの場には異質に感じてしまいました。
衣装に関しては役者さんも何度か衣装チェンジがあるのですが、細かいですが小さい劇場ゆえに気にかかったのは、破れたジーンズの穴から見えた仕込んだ衣装。うーむむむ。
最後に。1つ、ある場面に関してだけ、その段取り、役者を動かしたかったから入れた、ように見えてしまった箇所がありました。
と、いろいろ書きましたが、総合的には見ごたえのあるお芝居でした。。
帰りに台本を買いたかったけれど、販売していなかったのが残念です。
また見に来たいな、と思いながら急いで京都に帰ってきました。
あ、いまいちちょっとになってませんネ(汗)すみませぬ。。
 

心が動かされた

 投稿者:ケイナ  投稿日:2004年12月17日(金)19時45分32秒
   近畿大会の感想です。
 私の中では、金蘭会高の演技が、一番印象に残っています。大勢の芝居で、激しい演技だなと思いました。主人公の兄妹の過去と現在が同時に演じられていて、私にとっては新鮮な芝居でした。
 いじめのシーンでは、大人数で演じているにもかかわらず、ひとりひとりがしっかりしていて迫力がありました。いじめや、差別や偏見がドロドロまじっている社会の中で、支え合ってきている兄妹の絆が、ある出来事で壊れてしまう。障害を持っている兄が、妹をかばって傷ついたことで、妹も傷ついてしまい、兄の存在を卑下し、兄との過去を自分の中で否定しようとする。しかし、兄が死んだとき、やっと妹は、兄を認め、現実を認めて前に進んでいく、というような話でした。
 また、大谷高校の「ひずみかる」は、独特の雰囲気で、人が見失いがちな「大切なもの」を描いていました。演技の合間にダンスが入っていて、「サイフ」や「森」など、魅力的なキーワードがちりばめられており、「森(迷い)」のなかで、「サイフ(大切なもの)」を探す、ということが強調されていました。そして、最後、枠に貼った紙が上から降りてきて、それを登場人物が破るのですが、そのシーンでは、「壊せ、壊せ」と叫んでいて、激しくて、迫力がありました。「本当の友達」をみつけるというストーリーで、今の私にとって身近なので、親近感がわきました。
 私は、入部したばかりで、芝居をあんなに近くで見たのは初めてだったので、芝居がこんなに迫力のあるものだったのかとびっくりしました。そして、私が受けたような感動を、人に与えられたらどんなにいいだろうろ思いました。
 人の心を動かすということは、なかなかできるものではないと思います。また、演じることで、自分も磨けたら、それはすばらしいことだと思いました。

 

ゴジラ Final Wars

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年12月17日(金)01時29分15秒
   いやあ、面白かった。これは必見。
 旧来のゴジラ映画の約束事を、大きく逸脱していて、
 ストーリーや細部のリアリティはめちゃくちゃ。
 だが、香港映画のような、えもいわれぬエネルギーに満ちている。
 既成の枠にとらわれず、旧来の価値を破壊する映画である。
 そういう意味では、音楽で言えばロック的。
 ちなみに劇判もロックだった。キース・エマーソン。
 ダンディズムを「己のスタイルを貫く」と解釈するならば、
 オタク趣味炸裂、究極のダンディズムがここにある。ほめ過ぎかな。

 妖星ゴラスやらハリウッド製娯楽映画からの引用やら、
 ドン・フライやら宝田明(昔は百発百中だったらしい!)やら、
 オタク的ガジェットが、まるでおもちゃ箱のように詰めこまれている。
 「映画秘宝」的感性、ボンクラ男の夢の具現化だ。

 「ハウルの動く城」と対照的なのは、
 そうしたオタク的感性から生み出された表現が、
 次から次へ繰り出され、あっけらかんとしていて、肯定的な点だ。
 「ゴジラ Final Wars」は、猥雑で未整理だが、
 エネルギッシュで、イケイケである。
 「ハウルの動く城」は、端正だが、ゴジラほどのエネルギーは持たない。
 そして、現実に足をつけて生きることをしない「オタク的感性」に否定的だ。
 
 ふたつの作品とも、オタク的感性が生み出した作品であることは間違いない。
 では、違いは何かというと、
 結局、宮崎「ハウル」は大人であり、
 北村「ゴジラ」はガキであるということなのだろう。
 (ただ、大人の作品が見ごたえがあるか、といえば、
 一概にそうとは言い切れないと思う)
 そういう意味で、ふたつの作品は、表裏一体である。
 

「ハウル」を読み解く

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年12月14日(火)17時56分26秒
  「ナウシカ」などでは、あれだけ克明に世界を描いたのに
「ハウルの動く城」では、ドラマの背景をほとんど描かない。
「戦争」は、何のためにおこなっているのか、
そもそも、誰と誰が戦っているのか、分からない。
(それは、主人公ソフィーの女性的な視点で
 ドラマが描かれているからであるが)

かわりに、いろいろな象徴的なアイテムが、投げ出され、
解釈や意味づけがなされないまま、横たわっている。
それが、ドラマの中でどんな意味を持つのか、理解に苦しむ箇所も多い。
まるで、宮崎の見た「夢」をそのまま差し出しているかのようだ。
逆に言えば、象徴的に作品を読み解くには、とても刺激的な作品である、とも言える。
今回、宮崎は、パンフにも、作品解釈の文を寄せていない(そうだ)。
(確認していないので、誤認だったら教えてほしい)

宮崎も、積極的に読み解かれる読み方を望んでいるのではないか。
ああだこうだと言っている観客を見て、ニヤリと笑っている宮崎の姿が目に浮かぶ。

僕なりの「ハウルの動く城」についての解釈については以下の通り。

城は、オタク的感性の象徴、ハウルの心象風景。
自身を豚に投影させたりする、宮崎の露悪的表現。
城が身にまとったガラクタは、脆い自我を守るためのヨロイ。
城がよたよたと歩き回るサマは、現実にうまく対処できないサマだ。
部屋が汚い。いかにも自閉的。
魔よけの品で部屋を埋め尽くす。これも自閉の象徴。
そしてハウルは、夜になると、鳥(悪魔)に化けて戦場を飛び回る。
穿った見方をするなら、それは、全能感に包まれながら、夢想の世界に耽溺しているボンクラ男の姿。
姿が徐々に悪魔に変わるのは、自閉的行動への警告であり、懲罰だ。
「入りこみすぎると、怪物になるよ」と。

女性「ソフィー」は、そうした心性を「掃除」する。
ここでは、女性は、日常に軸足をおき、
積極的に飛ぶことにも興味を持たず、
(この作品、他の宮崎作品とは違い、飛翔のワクワク感は少ない)、
外で起こっている戦争や社会の動きに関心を持たない。
ある意味、宮崎のステロタイプな女性のイメージが感じられる。

ハウルと出会うのは、老婆だ。これは、「母」。
(現にソフィーは、ハウルの母となって、魔法使いのもとへ出かけていく)
ハウルは、母性によって癒され、守られ、成長し、
女性(若きソフィーになっている)と出会い、
家族を作る。(といっても今時を象徴するような疑似家族である)
ラストで、「家族」ができたときには、ハウルの城は、壊れて、もうない。
これは、ハウル(男)のオタク的感性からの「脱皮」だ。
パートナーをみつけ、現実に足をつけて、日常に男が着地したとき、
そこには、「オタク的ヨロイ」である「城」は、必要ない、ということだろうか。
 

お元気ですか。

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年12月12日(日)23時18分46秒
   愛さん、お久しぶりです。アメリカに行かれているのですね! 行動力に脱帽してしまいます。また一緒に芝居やりましょう。
 今年は、富岡東高も5年ぶりに四国大会ですネ。富岡東では、ムラハシ先生が大活躍です。台本も面白いし、いい役者も何人かいるし。ぜひぜひ見てあげてください。トミニシも頑張りたいです。といっても、ガンバルのは生徒なのですがネ。
 「Mr.インクレイディブル」近日中に見に行く予定です。「チーム・アメリカ」内輪では、すごい話題なんですよ。一刻も早く早く見たいです。「Finding Neverland」日本でも予告編をやってました。アメリカの映画館で観ると、観客の反応も違うのでしょうね。また、詳しい感想を待っています。
 「カーサ ブルータス」という雑誌をパラパラとめくっていると、新装なった「MoMA(ニューヨーク近代美術館)」の記事が出ていました。アメリカ行きたいですね。そして何よりモダン・アートやデザインの世界にゆっくりひたる時間がほしい。人生は短いのですから。
 

来未さんに聞きました!!

 投稿者:島田 愛  投稿日:2004年12月12日(日)17時28分22秒
  お久しぶりです!!今日くみさんからメールがあり、もう四国大会の時期なのだってことを思い出しました!!富西さんがんばって〜☆☆☆まあ、私はあくまで元・富東人ですが。
ちょうど帰国しているので絶対観に行きます☆
アメリカではやはり毎週新しい映画が公開されています。ですが、さすがに「ハウル〜」はまだまだですね。。。原作は売ってますが。
映画は今のところ3回観に行きました!「The Incredible」「TEAM AMERICA」「Finding Neverland」です。で、そこで学んだこと!!・・・邦題は「Mr.インクレディブル」。アメリカはあくまで自己中。少々英語が分からなくても泣けるし、笑える。
「TEAM AMERICA」は全部人形の映画でした。動きがすばらしく不自然!!でも面白かったです。人形だからこそ成し得る技で成り立っている映画でした。
ではでは。。四国大会頑張って下さい☆
 

遅くなりましたが、近畿大会感想

 投稿者:石川真弓  投稿日:2004年12月12日(日)01時57分16秒
  近畿大会に観劇に行くのは、今年で2回目でした。(両方とも1日目しか見れませんでしたが…)今回の近畿大会(1日目)をみて全体的に感じたのは、声を届けようとしている、どんどん前に出そうとしているといったことでした。
舞台セットを見る限りでは、抽象舞台や素舞台、セットがあるとしても最低限な舞台がおおかったです。(しかし、やはり天井はついていなかったので、トミニシは珍しいんだなと実感しました。)

観ての感想。観てというかなんと言うか、最前列は役者の気迫(というのかはわからないが)がむワッと伝わってきました。少し首が痛かったのですが。
さて、今回私が気になっていた1校を中心に感想をいっていきます。
気になっていた高校は、金蘭会高校さんの『月に帰る−ものがたり ウサウサ−』でした。去年、観劇したときカルチャーショックというかドキドキしっぱなしだったので気になってました。パンフをもらったとき(今年は、去年ほどじゃないのかな)と思っていましたが、大間違いでした。まず、舞台が怖かったです。ステージの奥には大きな赤いウサギの顔。その周りにたくさんのぬいぐるみ(兎)衝撃が伝わってきました。

芝居の感じはずっとドキドキはらはらで、芝居が終わった後しばらく何も考えれなくなるほどでした。そこに金蘭会さんの力があるんだと思います。

今回は、いろいろ勉強になりました。たくさんの芝居を観ることは自分にとっての糧のようにおもいました。たくさんの方が頑張っている姿を見て、芝居って奥が深いとおもいました。
そのあと、阪急電車にゆられゆられて(岡本の女子高の話もしながら)帰路につきました。四国大会、絶対いいものにしたいです。
 

・近畿大会の感想・

 投稿者:あぃこ  投稿日:2004年12月12日(日)01時28分0秒
  近畿大会観に行って来まシタ!!私は初!!のピッコロシアター☆
私達がピッコロシアターに着いた時、もぅすでに1校目の上演が始まってぃました。
途中入場だったので立ち見。一番後ろで客席から舞台を見下ろすくらぃの感じなのに、声が生々しく聞こえてきて、ホールの造りにはビックリしました。
これが言ってた「富西の芝居にピッタリなホール」なんデスね!
最初の高校サンはその日に見た芝居の中で1番日常に近いセリフが出されてぃた気がします。
劇中で客に愛想を振りまくシーンがあって、私的に少し「謎だ」と思ってしまった所もおったケド、高校生らしぃ芝居だったよぅな印象を受けました。

2校目は楽しみにしてぃた高校サン☆大谷高校サンの「ヒズミカル」。
全国大会では運営係りの仕事で見られなかったのが残念だったんですが、今回初めて観劇できて良かったです。
ノリのいぃ曲でのダンスのよぅな動きや、1人の心情表現するだけで全員分の心情へ繋がる演出や台本の書き方。とても普通に楽しめておもしろかったデス!!
1年生サンがぁれだけ鍛えられてぃたのにもビックリしました。…見習わなきゃッ…(>σ<;

もぅ1校、金襴会高校サンがとても印象的でした。
先輩や去年の近畿大会を観に行った部員に感想を聞いていた限りで、芝居の題材等にとても興味を持ってぃました。…聞いていた通り、怖かった…(笑)
タイトルを見る限りでは「うさぎの話しかな?」と思ったのですが、主となって変化していくのは人間。それも兄妹の絆。うさぎはキーワード。(と、思った)
ストーリーは悲しぃお話しです。最終的には人間は月へ帰って…、といぅコトは月でまた生れる転生に繋がるのかなと思っていたり。
演出が全てに手を入れてて、こっているなぁと感心しました。立ち位置なんかほとんど一定になっていなくて、舞台に段になるモノを使用するコトで奥行き、高低をうまく使っていて、1番前でも全てを目で追っていくことができました。照明・音響効果もよく表現できてぃて感心するばかりでした。
…でもやっぱり1番前ってバンバン伝わってきてもぅ恐ろしかったです…。(笑)

普通に楽しんで、劇してしまった1日でしたが、ぉ客サンにはどう見えているといぅのを客の視点から見て考え直すことが出来たので、見習わなきゃいけない部分・いけない部分を吸収して帰れた1日でした。この時間をこれからまた四国へ生かしていきたいと思います。
 

近畿の

 投稿者:大島 萌美  投稿日:2004年12月12日(日)00時50分31秒
  先日11月27日土曜日に近畿大会を観に兵庫県尼崎市ピッコロシアターに行ってきました。

上演されていたのは
兵庫県立加古川西高等学校『はじめの第1歩ッ!!』
大谷高等学校『ひずみかる』
滋賀県立安曇高等学校『木霊の森で』
和歌山県立田辺商業高等学校『ウサギと狼』
金蘭会高等学校『月に帰る−ものがたり ウサウサ−』
神戸女学院高等学校『夏芙蓉』
でした。
全体的に力の入った・・・という感じの演技が多かった感じがしました。
特に金蘭会高校は最前列で観劇していたせいもあってか、かなりド迫力でした。内容も何というか痛々しかったのですが、家族だとかを考えるような印象的な芝居でした。恐かったけど。


今回観た芝居は幸か不幸か(?)動物系の話の割合が高く驚きました。でも、その動物を表すのに
単に耳とシッポをつけていたのがなんだかなァと思いました。そうするのが無難ではあるけども、それではそのまんますぎて説明以外の何者でもないような気がして、なんだかしっくりきませんでした。
あと、自分的に谷高校『ひずみかる』が印象的でした。自分のココロの中を表すような抽象的な場面と現実世界の出来事の場面を交互に見せるような芝居の構成も面白いと思ったし人との間に感じてしまう『ひずみ』というものは結構身近な、不安要素だと思うからソレに対して悩み、頑張っていこうとする女の子たちをみると共感できるし、頑張って欲しいと思ったりもするから、私は好きだなァと思いました。

本当いろいろと勉強になりました。観にいけてよかったです。

 

神は細部に宿る「ハウルの動く城」

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年12月10日(金)14時07分28秒
  郊外にシネコンができて、旧来の映画館には閑古鳥が鳴いている。
「ハウルの動く城」を、昨日、市内の映画館で観た。
郊外のシネコンより空いていて、ゆっくり観られるだろうと思ったからだ。
予想通り、ガラガラ。客は15人くらいか。

そんな状態なので、クラスの生徒にもバッタリ会ってしまった。
「おいおい、お前は、これから受験ではないか!」

しかしまあ、こういう話は枚挙に暇がない。かつて、Y先生が、
高校演劇の県大会を観に来たN君(当時高校3年:現在某校演劇部顧問)を
郷文で追い返したというのは、県内の顧問の中では有名な話。
そういえば、僕も高3の11月、BOSEらと一緒に
徳島ホールで「あゝ新婚」を観たっけ。

今日はメンズ・デー。毎週木曜日。1000円。
これは北島シネコンにはない割引。
また、ドライバーズ割引というのもあって、
駐車券を持っていけば1000円にしてくれる。
(ついこの間まで僕はそのことを知らなかった!)
でも、僕は、遠くに駐車して、車に積んだ自転車で、映画館へ行き、
正規の料金を払って入るようにしている。駐車場代を払うよりは、
せめて映画館が利益になるようにした方がいいと思うからだ。

割引には、市内の旧来の映画館の共通ポイントカードもあるが、
「この映画館で使えます」と、名前の載っている映画館の半分は、すでにない。
シネコンが開館して以来、ここ数年の間にバタバタと閉館してしまった。
ずっと徳島で映画を見続けてきた者にとっては、寂しい限りである。

で、「ハウルの動く城」であるが、
悪評も多いので、おそるおそる観に行ったのだが、
面白く観ることができた。ほっとした。
とくに、ちょっとした絵の動きや、ちょっとしたセリフが面白い。
さりげない描写が、日常をフィルムに刻み、
それでいて反復や誇張の面白さをうまく拾っている。
アニメならではの、躍動する日常だ。
スカートをはたいてみたり、老婆の歩き方、
階段を上っていく年寄りと魔女の競争なんて、
僕には抱腹絶倒だった。

また、宮崎作品でよく描かれる「飛翔感」には欠ける気がした。
それは、観客が感情移入するべきソフィーが、主体的に跳ぼうとしていないからだ。
彼女は、地に足をつけて生きようとしている。
それは「千と千尋の神隠し」にもつながるモチーフだ。
今回、宮崎が日常的な描写にこだわるのが分かる気がした。

多くの人が言うように、確かに、展開、とっ散らかっている。
とくに、後半、唐突でわからないことも多い。
トータルでみれば、優れた作品と言えないのかも知れない。
宮崎は、無意識の働きを制御せずに、
この作品を創っているように思われる。
もちろん、それが許されるのは、見せる技術が伴っているからだろう。
しかし、こうしたおおらかさが、僕にとっては、とても心地よい。

「ハウル」では、国家(戦争)と個人の幸福を、対比して見せている。
宮崎作品と言えば、もはや国民的映画。
「ハウル」に寄せる国民の期待を裏切って、プライベートに描きたいものを描いてしまう、
その痛快さといったら(以下略)。

 

コラテラル

 投稿者:古田 彰信  投稿日:2004年12月 1日(水)13時52分53秒
   久しぶりの映画評。バタバタしていたが、3年の2学期末テストが始まって、ちょっと一息。四国大会にむけて、本格的な準備を始めなければならぬ。
 で、合間をぬって映画を見た。「コラテラル」ジェレミー・フォックス扮する冴えない運転手が、トム・クルーズ扮する暗殺者に巻きこまれるアクション。マイケル・マン監督。以下、ネタバレ炸裂。

 結論から先にいうと、これ、とても好き。
 数多のご都合主義的展開はあえて申すまい(それを言いつのると、「スパイダーマン2」も、凡作になってしまう)。ポイントは、ドラマの構成。事業の成功を夢見ながらも、自分では何もできない、タクシー運転手をずるずると12年も続けてしまった主人公(僕は20年も教員をずるずると続けている!)が、劇中劇的に変わる。その場面までの伏線の張り方もさることながら、転換点が、鮮烈で象徴的だ。
 それが、「車を暴走させて、転倒させる」場面。
 ヴィジュアル的な面もさることながら、状況に流されてきた主人公が、主体的に生きる主人公への転換点を、「タクシーの破壊」という出来事を通して象徴的に描いているのが、タクシーという小道具をきちんと生かすという意味でも、とてもいい。
 また、前半、タクシーが破損したことで、途方にくれている小市民的な主人公との対比があるから、タクシー転倒後の主人公のふっ切れ具合が鮮明に際立つ。その後、主人公がタクシーに戻らないのも、象徴的だ。

 また、ラストのラスト、殺人者に、ずっと後ろから銃を突き付けられてきた主人公が、地下鉄で瀕死の殺人者の対面の席に腰掛ける。常に被害者であった主人公が、殺人者と対等に向かい合う、ここもさりげない象徴的場面。ワカル者にはワカル、って感じだ。

 また、前半は、成功を夢見ながらも、怠惰に生きる主人公の日常が、きちんと描きこまれており、なんとなく自分とかぶる姿がそこにあって、何だか共感した。タクシーが、街の灯にじむ都会の中に溶け込んでいくようなイメージが、とても詩的で美しく、アップを多用したシーンも印象的。
 ラスト、殺人者(死んだかどうかは不明)は、地下鉄ともに、夜明けの街に消えていき、主人公は、夜明けの駅を女とともに逃げていくショットで幕。殺人者が死んだかどうかははっきり描かれず、警察やFBIの動向という伏線は回収されず、主人公たちの今後も暗示されることもない。この幕切れ、アクション映画としては、カタルシスが弱く、いささかあっけない。観客に「まだ続くかも」と思わせ、消化不良を感じさせる。

 しかし、安直なカタルシスを与えないのは、おそらく作り手の意図だろう。「ああ面白かった」で終わらなかったからこそ、後々まで、この映画のことを僕は考えつづけることができる。
 この作品の主人公は、ヒーローになったり、自己変革を果たさないのだろう。状況の改善はあったにせよ、今までとさして変わらない日常がこれからも続いていくことを予感させられる。序盤、この映画が、タクシー運転手の日常のはじまりやダメぶりを克明に描いたのは、そういった意味からも必然性があったのだ。
 単純なアクションではなく、そうしたラストに着地させた作り手の意志に、僕は大いなる共感を覚える。なぜなら、我々も、そんなに簡単に、自己変革など果たせるはずもなく、ヒーローになりえるべくもなく、終わりなき日常を生きなければならないのだから。それがこの作品の描く「リアリティ」ということだろう。

 

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